だが我々は、言語のあまりに抽象的な、あまりに
論理的な概念を敬遠しよう。なぜと言って実際に「詩を作らない詩人」という如き命題は、「
脊椎のない脊椎動物」というにひとしく、奇怪な言語上のトリックであり、事実としては無いところの、思弁上の抽象概念に属している。
実に「詩」という言語は、芸術の表現にのみ言われるので、表現のない詩や、表現を持たない詩人などと言うものは、事実上に於てノンセンスである。
畢竟こうした言葉が言われるのは、詩の本質に於ける精神――
詩的精神そのもの――を形体なき世界に於て無限に拡大したからである。
芸術は肉体と霊魂と、表現と精神との結合である。故に
吾人は、肉体なき霊魂を考え得ず、表現なき「詩の幽霊」を
思惟し得ない。
詩は表現があってのみ、始めて詩と言われるのである。
それ故に「詩人」という語も、また常に「表現者」を指すのである。単なる「生活者」は、決して真の意味の詩人でない。実に
詩人と言う語の正しい定義は、単なる生活者でもなく、単なる芸術家でもなく、その両方を一所の中心に持つところの、或る特別の人間を指すのである。換言すれば、
詩人とは「訴えようとする主観者」と、「表現しようとする客観者」とが、相互に程のよい調和に於て、固く結合した人格を指すのである。然るにこの主観者と客観者とは、多くの場合に於て必ずしも一致しない。のみならず二つの天性はしばしば互に排斥し合い、矛盾し合いさえするのである。なんとなれば
主観者は、それ自ら感情であり、烈しい爆発的の行為に出ようとするところの、デオニソス的激情性のものであるのに、客観者は智慧であって、表現の観照に向うところの、静かな明徹したアポロ的理性であるから。そして
デオニソスとアポロとは、容易に普通の人格では、同棲することができないのである。
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