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形式論は一応完読。内容論を確認したい。
主観的な芸術家等は芸術(表現)は、かかるイデヤに対するあこがれであり、勇躍への意志であり、もしくは嘆息たんそくであり、祈祷きとうであり、あるいは絶望の果敢はかなき慰め――悲しき玩具がんぐ――であるにすぎないゆえに表現は彼等にとって、真の第一義的な仕事でなく、イデヤの真生活に至る行路の、「生活のための芸術」である。もし彼等にして希望を達し、その祈祷がかれ、熱情するイデヤの夢を現実し得たらば、もはや表現は必要がなく、直ちに芸術が捨てられてしまうであろう。(だが真の芸術家の有する夢想は、イデヤの深奥な実在に触れてるもので、永遠に実現される可能がない故、結局して彼等は終生の芸術家である。)
 然るに客観的の芸術家は、一方でこれと別な態度で、表現の意義を考えている。彼等は主観によって世界を見ずして、対象について観察している。彼等の態度は、世界を自分の方に引きつけるのでなく、ある所の現実からして、意義と価値とを見ようとする。故に生活の目的は、彼等にとって価値の認識、即ち真や美の観照である。然るに芸術にあっては、観照がそれ自ら表現である故に、芸術と生活とは、彼等にとって全く同一義のものになってくる。即ち生活することが芸術であり、芸術することが生活なのだ。芸術は生活以外にあるのでなく、それ自体の中に目的を有している。何とならば生活の目標が、彼等にとっては、表現(観照)であり、芸術と生活とが、同じ言語の二重反復トートロゲイにすぎないから。
 即ち言わば彼等にとって、芸術は正に「芸術のための芸術」なのだ。


 文壇で言われる「生活のための芸術」「芸術のための芸術」の正しい本質は、実に前述した如くである。即ちそれは「イデヤのための芸術」「観照のための芸術」の別語であって、つまり言えば主観主義と客観主義浪漫主義と現実主義との、人生観的見地からくる芸術の見方にすぎない。主観的ロマンチシズムの人生観に立ってる人は、必然に「生活のための芸術」を考えるし、客観的レアリズムの立場にいる人たちは、必然に「芸術のための芸術」を思うであろう。しかし注意すべきことは、こうした見解が態度上のものであって、芸術作品としての批判上には、何等関係しないということである。
学術が学術として批判される限りに於ては、純に真理としての学術価値を問うのであって、他の功利価値や実用価値に関していない。例えば電信や蒸気船やは、発明の目的が社会の福祉にあったにせよ、或は純に科学的の興味にあったにせよ、発見としての価値に変りがなく、またその学術上の批判に於ては、利用の有益と無益とを問わないのである。
 芸術がまたこれと同じで、主観に於ける作家の態度は、価値批判の上に関係しないゆえにもし諸君が意志するならば、芸術は売文のためであってもよく、ミツワ石鹸せっけんの広告のためであってもよく、或は共産主義の宣伝のためでもよく、社会風規の匡正きょうせいや国利民福のためでも好い。ただしかしこれを批判する上からは、そうした個々の解説と立場につかず、表現自体としての芸術的価値を見るのである。もしそうでなく、芸術の批判を個々の主観的立場でいたら、一も批準のよるところがないだろう。なぜならば或る者は宣伝の効果を主張し、或る者は商品販売の効果を重視し、或る者は教育上の効果を言い立て、各々の価値の批準がてんでにちがってくるから。


作家自身の態度としては、芸術が慰安的な「悲しき玩具がんぐ」であろうとも、或は生命いのちがけな「真剣な仕事」であろうとも、批判する側には関係がなく、いずれにせよ表現の魅力を有し、作品として感動させてくれるものが好いので、芸術の批判は芸術に於てのみなされるのだ。換言すれば芸術は――どんな態度の芸術であっても――芸術それ自体の立場から、芸術を芸術の目的で批判される。
 では芸術が芸術として、芸術の目的から批判されるというのは、どういうことを意味するだろうか。言いかえれば芸術批判の規準点は、いったいどこにあるのだろうか。これに対する答は、一般に誰も知ってる通りである。即ち芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される。そして此処ここには、もちろんいかなる例外をも許容しない。いやしくも芸術品である以上には、ことごとく皆美の価値によって批判される。芸術の評価はこれ以外になく、またこれを拒むこともできないのである。
 しかしながら美の種目には、大いにその特色を異にするところの、二つの著るしい対照がある。即ちその一つは純粋に芸術的な純美であって、他の一つはより人間的な生活感に触れるところの、或る別の種類の美である。そこで「芸術のための芸術」が求めるものは、主としてこの前の方の美に属する。故に彼等は、純美としての明徹した智慧ちえよろこび、描写と観照の行き届いた、表現の芸術的に洗煉された、そしてどこか冷たい非人間的の感じがする、或るクリーアに澄んだ美を求める。これに反して一方の人々は、そうした非人間的の美を悦ばない。彼等の芸術に求めるものは、もっと人間性の情線に触れ、宗教感や倫理感やを高調し、生活感情に深くひびいてくるところの、より意欲的で温感のある美なのである。
 すべての所謂「生活のための芸術」は、この後者に属する美を求める。故に彼等はこの点から、芸術至上主義の審美学に反対して、よりダイナミックの芸術論を主張する。今日我が文壇で言われるプロレタリヤ文学の如きも、この後者に属する一派であって、彼等が要求している芸術は、実にこの種の美なのである。されば彼等は、表面上に「宣伝としての芸術」を説いていながら、内実にはやはりその作品が、芸術としての批判で評価されることを欲しており態度がはなはだしく曖昧あいまいで不徹底をきわめている。けだしこの一派の迷妄めいもうは、その芸術上に於て正しく求めようとする美の意識と、政治運動としてのイデオロギイとを、無差別に錯覚している無智に存する。 

 ところでこの前の方の美、即ち「芸術のための芸術」が求めるものは、叡智えいちの澄んだ「観照的」の純美であって、正しく美術が範疇はんちゅうしている冷感の美に属する。反対に「生活のための芸術」が求めるものは、より燃焼的で温熱感に富んでるところの、音楽の範疇美に所属している。然るに「生活のための芸術」は、始めから主観主義の立場に立って人生を考えるものである故に、彼等の求めるところが、美術の純美になくして音楽の陶酔にあることは、全く予定されたる当然の帰結である。そしてこのことは、同様に他の一方の者についても考えられる。されば「生活のための芸術」と言い「芸術のための芸術」と言うのも、所詮しょせん主観派と客観派との、美に対する趣味の相違にすぎないので、本質に於て考えれば、意外に全く同じ芸術主義者の一族であることが解るであろう。
 
 真の意味で「生活のための芸術」と言われるものは、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。ゆえに例えば、ゲーテや、芭蕉ばしょうや、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの異端的快楽主義に惑溺わくできしたワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、きわめて詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の誤謬ごびゅうについて、ついでに此処ここで一言しておこう。
 元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける人間主義者ヒューマニストによって、初めて、標語されたものであって、当時の基督キリスト教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち人間主義者ヒューマニスト等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきことを説いたのである。故に当時の意味に於ては、正統なる芸術批判の主張であって、もとより「生活のための芸術」に対する別の主張ではなかったのだ。
 然るに当時の人間主義者ヒューマニスト等は、初めから基督教に叛逆はんぎゃくして立っていた為、この「芸術のための芸術」という語は、それ自ら反基督教、反教会主義の異端思想ヘドニズムを含蓄していた。即ち当時のヒューマニズムは、故意に神聖冒涜ぼうとくの思想を書き、基督教が異端視する官能の快楽を追い、悪魔視される肉体の讃美さんびをして、すべての基督教道徳に反抗した為、彼等の標語「芸術のための芸術」は、それ自ら異端的の悪魔主義や官能的享楽主義やを、言語自体の中に意味するように考えられた。然るに「芸術」はそれ自ら「美」を意味する故に、此処に唯美主義とか、芸術至上主義とかいう言葉が、必然に異端的の快楽主義や、反基督の悪魔主義やと結ぶことになった。今日なお十九世紀に於けるワイルドやボードレエルやを、しばしば唯美主義者と呼び、芸術至上派と呼び、「芸術のための芸術家」と言ったりするのは、実にルネサンス以来のヒューマニズムが、文壇的に伝統しているためである。
 しかしながら言うまでもなく、こうした称呼はもはや、今日のものでなく、かのゴシック建築の寺院と共に、古風な中世紀の遺風に属している。今日の時代思潮に於ては、もはや「美」や「芸術」やの言語が、カトリック教的叛逆の「異端」を意味していない故に、我々の文壇がこうした古風の遺風の意味に於て、唯美主義や芸術至上主義を言語するのは馬鹿げている。今日の意味に於て、正しく唯美主義と言わるべき芸術は、人間感や生活感やを超越したところの、真の超人的なる芸術至上主義――即ち純一に徹底したる「芸術のための芸術」――についてのみ思惟しいされるのだ。
* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対する極端な現実的観念を、最もよく語っている。つまり「生活のための芸術」が、日本では茶道の精神で解されたのだ。。
ではその「あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる観念イデヤであって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。
 ず第一に、概念の最も判然としているものをあげれば、すべての所謂いわゆる主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――観念イデヤが抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最もはっきりしている。しかしながら芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、おおむねの芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、なお「主義」についての解説を進めて行こう。芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまからである。 ゆえに概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
 そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである
 故に芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。いわんや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。
概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇はんちゅうに属している。 故に芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そしてなお一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、夢という文字にイデヤの仮名をつけ「イデヤ」として考えると、この場合の実体する意味がはっきりと解ってくる。即ち芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
批評家のすべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、あるいはトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観えんせいかんを発見したりするのである。
就中なかんずく詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであって、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉ばしょうはこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。
思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、ライフの胸底に響く孤独感を訴えるから
実に啄木たくぼくは歌って言う。「生命いのちなき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も知らなかった。ただどこかに、或る時、何等か、燃えあがるような生活の意義をたずね、群の燈火に飛び込むように、全主観の一切を投げ出そうとする、不断のいらだたしき心のあこがれ、実在のイデヤを追う熱情だったされば彼の生涯は、芸術によっても満足されず、社会運動によっても満足されず、絶えず人生の旅情を追った思慕の生活、「何処にかある如し」「遂に何処にか我が仕事ある如し」の傷心深き生活だった。
所詮しょせんするに詩人のイデヤは、他のすべての芸術家のそれにまさって、情熱深く燃えてるところの、文字通りの「夢」の夢みるものであろう。  浪漫主義と理想主義との、二つの類似した言語に於ける別が、イデヤに於ける具象と抽象との、はっきりした差別を示している。即ち理想主義と言う言葉は、或る概念されたる、一の名目ある観念への理想を意味し、浪漫主義という言葉は、或る漠然とした、名目なきイデヤへのあこがれを意味している。故に芸術家の主観にあっては、理想主義と言うものはなく、常に浪漫主義が有るのみである

 ゲーテはそのエッケルマンとの対話に於て、次のようなことを語ってる。
観念イデヤだって? 私はそんなものは知らない。」
「私が自覚して、一貫した観念を表現しようとした唯一の作は親和力だろう。そのためあの小説は理解しやすくはなったが、そのために善くなったとは言えない。むしろ文学的作品は、不可測であればあるほど、悟性で理解しがたければしがたいほど、善いものだと思っている。
     第三章 浪漫主義と現実主義


 客観派の本塁は美術であるのに、音楽と美術の優劣に至っては、何人も批判することができないからだ。
表現に於ける二大分野の特色を明らかにし、相互の旗色を判然とすることができたからだ

異議の別れる所以ゆえんは、両者の人生に対する哲学――人生観そのもの――が、根本に於てちがっているからである。文学上に於けるすべての異論は、実にこの人生観の別から来ている。これを両方の者について調べてみよう。
 客観派の文学、即ち自然主義や写実主義について見れば、人生は一つの実在であり、正にそれが有る如く、現実に於て見る如くである。
生活態度は知的であり、認識至上主義であり、一切「真実への観照」にかかってる。即ちそれは「観照のための芸術」である。
一方に於ては、浪漫主義等の主観派文学が、これとちがった人生観をいだいている。この派の人々に取ってみれば、人生は現に「あるもの」でなく、正に「あるべきもの」でなければならない。
 実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。 

 この両方の思想の相違を、最もよく説明するものは、プラトンとアリストテレスの美術論である。プラトンによれば、自然はイデヤの模写であるのに、美術はその模写を模写する故に、虚妄の表現であり、いやしく劣等な技術であるというのである。(彼が音楽を以て最高の芸術とし、美術を以て劣等の芸術と考えたのは、いかにもプラトンらしく自然である。)これに反してアリストテレスは、同じく美術を自然の模写であると認めながら、それ故に真実であり、智慧ちえの深い芸術であると考えた。

 かく芸術上に於ける主観主義と客観主義の対立は、人生観としての立場における、浪漫主義と現実主義の対立に帰結する。彼がもしロマンチストであったならば、必然に表現上の主観主義者になるであろうし、彼がもしレアリストであったならば、必然に表現上の客観主義者になるであろう。しかし言語は概念上の指定であって、具体的な事物について言うのでないから、単に概称してロマンチストと言い、レアリストと言う中には、特色を異にする多くの別種が混同している。例えば普通にレアリストと称されてる作家の中に、かえって本質上のロマンチストがいたりする。またロマンチストの中にも、理念を異にし気質を別にするところの人々が居る。以上次第に章を追って、これ等の区別を判然とするであろう。
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