作家自身の態度としては、芸術が慰安的な「悲しき
玩具」であろうとも、或は
生命がけな「真剣な仕事」であろうとも、
批判する側には関係がなく、何れにせよ表現の魅力を有し、作品として感動させてくれるものが好いので、芸術の批判は芸術に於てのみなされるのだ。換言すれば芸術は――どんな態度の芸術であっても――芸術それ自体の立場から、芸術を芸術の目的で批判される。
では芸術が芸術として、芸術の目的から批判されるというのは、どういうことを意味するだろうか。言いかえれば
芸術批判の規準点は、いったいどこにあるのだろうか。これに対する答は、一般に誰も知ってる通りである。
即ち芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される。そして
此処には、もちろんいかなる例外をも許容しない。いやしくも芸術品である以上には、
悉く皆美の価値によって批判される。芸術の評価はこれ以外になく、またこれを拒むこともできないのである。
しかしながら
美の種目には、大いにその特色を異にするところの、二つの著るしい対照がある。即ちその一つは
純粋に芸術的な純美であって、他の一
つはより人間的な生活感に触れるところの、或る別の種類の美である。そこで
「芸術のための芸術」が求めるものは、主としてこの前の方の美に属する。故に彼等は、純美としての明徹した
智慧を
悦び、
描写と観照の行き届いた、表現の芸術的に洗煉された、そしてどこか冷たい非人間的の感じがする、或るクリーアに澄んだ美を求める。これに反して一方の人々は、そうした非人間的の美を悦ばない。彼等の芸術に求めるものは、もっと
人間性の情線に触れ、宗教感や倫理感やを高調し、生活感情に深くひびいてくるところの、より意欲的で温感のある美なのである。
すべての所謂
「生活のための芸術」は、この後者に属する美を求める。故に彼等はこの点から、芸術至上主義の審美学に反対して、
よりダイナミックの芸術論を主張する。今日我が文壇で言われるプロレタリヤ文学の如きも、この後者に属する一派であって、彼等が要求している芸術は、実にこの種の美なのである。されば彼等は、表面上に「宣伝としての芸術」を説いていながら、
内実にはやはりその作品が、芸術としての批判で評価されることを欲しており、
態度が甚だしく曖昧で不徹底を極めている。けだしこの一派の迷妄は、その芸術上に於て正しく求めようとする美の意識と、政治運動としてのイデオロギイとを、無差別に錯覚している無智に存する。
ところでこの前の方の美、即ち「芸術のための芸術」が求めるものは、
叡智の澄んだ「観照的」の純美であって、正しく美術が
範疇している冷感の美に属する。反対に「
生活のための芸術」が求めるものは、
より燃焼的で温熱感に富んでるところの、音楽の範疇美に所属している。然るに「生活のための芸術」は、始めから主観主義の立場に立って人生を考えるものである故に、彼等の求めるところが、
美術の純美になくして音楽の陶酔にあることは、全く予定されたる当然の帰結である。そしてこのことは、同様に他の一方の者についても考えられる。されば「生活のための芸術」と言い「芸術のための芸術」と言うのも、
所詮は
主観派と客観派との、美に対する趣味の相違にすぎないので、本質に於て考えれば、意外に
全く同じ芸術主義者の一族であることが解るであろう。
真の意味で「生活のための芸術」と言われるものは、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。
故に例えば、
ゲーテや、芭蕉や、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの
異端的快楽主義に惑溺したワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、
極めて
詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の
誤謬について、ついでに
此処で一言しておこう。
元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける
人間主義者によって、初めて、標語されたものであって、当時の
基督教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち
人間主義者等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきことを説いたのである。故に当時の意味に於ては、正統なる芸術批判の主張であって、
もとより「生活のための芸術」に対する別の主張ではなかったのだ。
然るに当時の
人間主義者等は、初めから基督教に
叛逆して立っていた為、この「芸術のための芸術」という語は、それ自ら反基督教、反教会主義の
異端思想を含蓄していた。即ち当時のヒューマニズムは、故意に神聖
冒涜の思想を書き、基督教が異端視する官能の快楽を追い、悪魔視される肉体の
讃美をして、すべての基督教道徳に反抗した為、彼等の標語「芸術のための芸術」は、それ自ら異端的の悪魔主義や官能的享楽主義やを、言語自体の中に意味するように考えられた。然るに「芸術」はそれ自ら「美」を意味する故に、此処に唯美主義とか、芸術至上主義とかいう言葉が、必然に異端的の快楽主義や、反基督の悪魔主義やと結ぶことになった。今日
尚十九世紀に於けるワイルドやボードレエルやを、しばしば唯美主義者と呼び、芸術至上派と呼び、「芸術のための芸術家」と言ったりするのは、実にルネサンス以来のヒューマニズムが、文壇的に伝統しているためである。
しかしながら言うまでもなく、こうした称呼はもはや、今日のものでなく、かのゴシック建築の寺院と共に、古風な中世紀の遺風に属している。今日の時代思潮に於ては、もはや「美」や「芸術」やの言語が、カトリック教的叛逆の「異端」を意味していない故に、我々の文壇がこうした古風の遺風の意味に於て、唯美主義や芸術至上主義を言語するのは馬鹿げている。
今日の意味に於て、正しく唯美主義と言わるべき芸術は、人間感や生活感やを超越したところの、真の超人的なる芸術至上主義――即ち純一に徹底したる「芸術のための芸術」――についてのみ思惟されるのだ。
* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対する極端な現実的観念を、最もよく語っている。つまり「生活のための芸術」が、日本では茶道の精神で解されたのだ。。