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 第二章 音楽と美術
       ――芸術の二大範疇はんちゅう――


 思惟の様式についてみれば、すべての主観的人生観は時間の実在にかかっており、すべての客観的人生観は空間の実在にかかっている。唯心論と唯物論、観念論と経験論、目的論と機械論等の如き、人間思考の二大対立がよるところは、結局して皆此処ここに基準している。
主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於て典型され、客観主義に属するすべてのものは、美術の表現に於て典型される音楽の魅力は酩酊めいていであり、陶酔であり、感傷である。 これに対して美術は、何という静観的な、落着いた、智慧ちえ深いをしている芸術だろう。

音楽は正に「火の美」であり、美術は正に「水の美」である。 
主観的なる一切の芸術は、それ自ら音楽の特色に類属し、客観的なるすべてのものは、本質上に於て美術の同範に属している。そこでこれを文学について考えれば、詩は音楽と同じように情熱的で、熱風的な主観を高調するに反し、小説は概して客観的で、美術と同じように知的であり、人生の実相を冷静に描写している。即ち詩は「文学としての音楽」であり、小説は「文学としての美術」である
 しかしながら言語の意味は、常に関係上の比較にかかっているから、関係にしてちがってくれば、言語の指定するものもちがってくる。
詩に於ても、やはりこの同じ二派の対照がある。
叙事詩が客観的だと言う意味は、必ずしもそれが歴史や伝説を書くからでなく、他にもっと本質的な深い意味があるからである。だが、この問題は本書のずっと後に廻しておいて、当面の議事を進めて行こう。日本の詩について見れば、和歌と俳句の関係が、主観主義と客観主義を対照している。詩の内容の点からみても、音律の点からみても、和歌の特色が音楽的であるに反して、俳句は著るしく静観的で、美術の客観主義と共通している
美術について考えれば、一方にゴーガンや、ゴーホや、ムンヒや、それから詩人画家のブレークなどがいて、典型的な主観派を代表している。即ちこの種の画家たちは、対象について物の実相を描くのでなく、むしろ主観の幻想や気分やを、情熱的な態度で画布に塗りつけ、詩人のように詠歎えいたんしたり、絶叫したりしているのである。故に彼等の態度は、絵によって絵を描くというよりも、むしろ絵によって音楽を奏しているのだ。然るにこの一方には、ミケランゼロや、チチアンや、応挙おうきょや、北斎ほくさいや、ロダンや、セザンヌやの如く、純粋に観照的な態度によって、確実に事物の真相をつかもうとするところの、美術家の中の美術主義者が居る。
 音楽がまた同様であり、主観主義の標題楽と、客観主義の形式楽とが対立している。標題音楽とは、近代に於ける一般的の者のように、楽曲の標題する「夢」や「恋」やを、それの情緒気分に於て表情しようとする音楽であり、その態度は純粋に主観的である。然るに形式音楽の態度は、楽曲の構成や組織を重んじ、主として対位法によるフーゲやカノンの楽式から、造形美術の如き荘重の美を構想しようとするのであって、きわめて理智的なる静観の態度である。即ち形式音楽は「音楽としての美術」と言うべく、これに対する内容主義の標題楽は、正に「音楽の中での音楽」というべきだろう。
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 詩という言語が指示している、内容上の意味は何だろうか?
 
 すべての芸術は、二つの原則によって分属されてる。即ち主観的態度の芸術と、客観的態度の芸術である。芸術上に於ける主観的態度とは何だろうか。客観的態度とは何だろうか

 主観と客観との区別が、必ずしも対象の自我と非我とに有るのでなくもっと深いところに意味をもってる、或る根本のものに存する

 では自我とは何だろうか? 
 自我とは実に温熱の感であり、非我とはそれの伴わない、冷たくよそよそしい感である

主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度
である。
自分で自分から離れるなどいう奇態なわざが、実際にできるはずがない

こうした思想が、さも当然のように行われるのは、この場合に於ける「自我」が、常に「感情」を指してるからだ。

芸術上の主観主義とは、感情や意志を強調する態度を言い、客観主義とは情意を排し、冷静な知的の態度によって、世界を、無関心に観照する態度を言う。

客観はきまって「冷静なる客観」であり、主観は常に「熱烈なる主観」である
芸術にける形式と内容の関係は、鏡に於ける映像と実体の関係だ。

内容からされた詩の解説が、かく各人各説であるに反して、一方形式からされた詩の答解は、不思議に多数者の意見が一致し、古来の定見に帰結している。

第一の疑問は、韻律リズムとは何ぞや、韻文バースとは何ぞや言うことである。

彼等の認識中には、詩と散文との間に割線がなく、しばしば韻文の延べた線が、散文の方に紛れ込んでいるのを知ってる。

詩の答解は、散文(PROSE)に対する韻文(VERSE)と言う如き、単純な断定によっては尽し得ない。

形式からも内容からも、従来詩に就いて答解されたすべてのものは、一として合理的な普遍性を有していない。

詩とは「詩の内容」が「詩の形式」を取ったものである。

詩を作るのは、情緒と直観の衝動による内臓的行為である、詩の原理を考えるのは、理智の反省による頭脳の悟性的行為である。
すべての美なるもの、高貴なるもの、精神的なるもの、情熱的なるもの、理念的なるもの及び浪漫的なる一切のものは、本質的に詩精神の泉源する母岩である

 

 

一応、内容論は一通り読み終わったので、今日からは、少しづつ自分なりにまとめていこうと思う。

今日は、取り敢ず・・・序。

朔太郎は、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一したことに満足しているようだ。

①詩的精神とは何であるか
②文学のどこに詩が所在するか
③詩の表現に於ける根本の原理は何であるか
④詩と他の文学との関係はどうであるか
⑤そもそも詩と言われる概念の本質は何であるか

朔太郎は、詩の詩たる正体を判然明白に解説したと言明している。

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