ではその「
あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる
観念であって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。
先ず第一に、
概念の最も判然としているものをあげれば、すべての
所謂「
主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――
観念が抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最も
はっきりしている。しかしながら
芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、
概ねの
芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、
尚「主義」についての解説を進めて行こう。
芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない。
芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る
「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら
芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまうからである。
ゆえ)に概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、
何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに
人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる
具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである。
故に
芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。況んや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。
概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇に属している。 故に
芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに
芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ
VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そして
尚一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、
夢という文字にイデヤの仮名をつけ「夢」として考えると、この場合の実体する意味が
はっきりと解ってくる。即ち
芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
批評家の為すべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、或はトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観を発見したりするのである。
就中、詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであって、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉はこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。
思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、生の胸底に響く孤独感を訴えるから。
実に啄木は歌って言う。「生命なき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も知らなかった。ただどこかに、或る時、何等か、燃えあがるような生活の意義をたずね、蛾群の燈火に飛び込むように、全主観の一切を投げ出そうとする、不断の苛たしき心のあこがれ、実在のイデヤを追う熱情だった。されば彼の生涯は、芸術によっても満足されず、社会運動によっても満足されず、絶えず人生の旅情を追った思慕の生活、「何処にかある如し」「遂に何処にか我が仕事ある如し」の傷心深き生活だった。
所詮するに詩人のイデヤは、他のすべての芸術家のそれに優って、情熱深く燃えてるところの、文字通りの「夢」の夢みるものであろう。 浪漫主義と理想主義との、二つの類似した言語に於ける別が、イデヤに於ける具象と抽象との、はっきりした差別を示している。即ち理想主義と言う言葉は、或る概念されたる、一の名目ある観念への理想を意味し、浪漫主義という言葉は、或る漠然とした、名目なきイデヤへのあこがれを意味している。故に芸術家の主観にあっては、理想主義と言うものはなく、常に浪漫主義が有るのみである。
ゲーテはそのエッケルマンとの対話に於て、次のようなことを語ってる。
「観念だって? 私はそんなものは知らない。」
「私が自覚して、一貫した観念を表現しようとした唯一の作は親和力だろう。そのためあの小説は理解し易くはなったが、そのために善くなったとは言えない。むしろ文学的作品は、不可測であればあるほど、悟性で理解しがたければしがたいほど、善いものだと思っている。」
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