実に美術の本質は、対象の本質に突入し、物如の実相を把握しようとするところの、直覚的認識主義の極致である。それは智慧の瞳を鋭どくし、客観の観照に澄み渡って行く。故に絵画の鑑賞には、常に静かな秋空があり、澄みきった直感があり、物に動ぜぬ静観心と
叡智の行き渡った眼光がある。それは見る人の心に、或る冷徹した、つめたい水の美を感じさせる。即ちこの関係で、
音楽は正に「火の美」であり、美術は正に「水の美」である。一方は燃えることによって美しく、一方は澄むことによって美しい。そして絵画のみでなく、またもちろん、すべての造形美術がそうである。たとえば、建築の美しさは、あの幾何学的な、数理式的な、均斉や調和の取れた、そして大地の上に静寂としてる、あのつめたく澄んだ触覚にある。それは理智的の静観美で、熱風的の感情美でない。即ちニイチェの比喩で言えば、美術はまさに智慧の女神アポロによって表徴されてる、端麗静観の芸術である。
音楽と美術によって代表されてる、この著るしい両極的の対照は、他の一切の芸術に普遍して、主観的のものと客観的のものとを対照づけてる。即ち
主観的なる一切の芸術は、それ自ら音楽の特色に類属し、客観的なるすべてのものは、本質上に於て美術の同範に属している。そこでこれを
文学について考えれば、詩は音楽と同じように情熱的で、熱風的な主観を高調するに反し、小説は概して客観的で、美術と同じように知的であり、人生の実相を冷静に描写している。即ち
詩は「文学としての音楽」であり、小説は「文学としての美術」である。
しかしながら
言語の意味は、常に関係上の比較にかかっているから、関係にしてちがってくれば、言語の指定するものもちがってくる。例えば函館は日本の北で、台北は日本の南である。けれども北海道の地図から言えば、函館はその南であり、台湾の地図から見れば、台北はその北方である。故に詩や小説が世界している、各々の内側に入って見れば、そこはまた主観主義と客観主義とが、それぞれの部門に対立し、音楽型と美術型とが分野している。先ず小説について見れば、浪漫派や人道派等の名で呼ばれるものは、概して皆主観主義の文学であり、自然派や写実派の名目に属するものは、多く皆客観主義の文学である。したがって前者の特色は、愛や
憐憫やの情緒に溺れ、或は道義観や正義観やの、意志の主張するところを強く掲げ、すべてに於て音楽のように燃焼的である。これに反して客観派の小説は、知的に冷静な態度を以て、社会の現実している真相を描こうとする。
次に
詩に於ても、やはりこの同じ二派の対照がある。例えば西洋の詩で、
抒情詩と叙事詩の関係がそうである。一般に言われている如く、抒情詩は主観的の詩に属し、叙事詩は客観的の詩に属する。しかし
叙事詩が客観的だと言う意味は、必ずしもそれが歴史や伝説を書くからでなく、他にもっと本質的な深い意味があるからである。だが、この問題は本書のずっと後に廻しておいて、当面の議事を進めて行こう。日本の詩について見れば、和歌と俳句の関係が、主観主義と客観主義を対照している。
詩の内容の点からみても、音律の点からみても、和歌の特色が音楽的であるに反して、俳句は著るしく静観的で、美術の客観主義と共通している。また箇々の詩派について言えば、欧洲の浪漫派や象徴派に属する詩風は、概して情緒的の音楽感を高調し、古典派や高踏派に属するものは、美術的の静観と形式美とを重視する。
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