新版の序
インテリの通有性は、自分の
心情が
為してる仕事に対して、自分の
頭脳が懐疑を持つことだと言われている。
詩を作るのは、情緒と直観の衝動による内臓的行為であるが、詩の原理を考えるのは、理智の反省による頭脳の悟性的行為である。ところで、詩人としての私の生活が、過去にそのインテリの通有性を、型通りに経過して来た。即ち私は、一方で人生を歌いながら、一方で人生の何物たるかを思想し続け、一方で詩を書きながら、一方で詩の本質について懐疑し続けて来た。この『詩の原理』は、私が初めて詩というものを書いた最初の日から、自分の頭脳に往来した種々の疑問の
総譜表である。
しかしこの書の初版が出てから、既に約十年の時日が
経ってる。この長い歳月の間に、自分の思想に多少の変化と進歩があり、今日の私から見て、この著に幾分の不満なきを得ない。しかしそれは部分的の事であり、大体に於て
一貫する主脈の思想は、十年後の今の私も依然として同じであり、堅く自分はその創見と真実を信じきってる。
私がこの書を書いたのは、日本の文壇に自然主義が横行して、すべての詩美と詩的精神を
殺戮した時代であった。その頃には、詩壇自身や詩人自身でさえが、文壇の悪レアリズムや凡庸主義に感染して、
詩の本質とすべき高邁性や浪漫性を自己虐殺し、却って詩を卑俗的デモクラシイに散文化することを主張していた。したがってこの『詩の原理』は、かかる
文壇に対する挑戦であり、併せてまた当時の詩壇への啓蒙だった。
今や再度、詩の新しい
黎明が来て、詩的精神の正しい認識が呼び戻された。
すべての美なるもの、高貴なるもの、精神的なるもの、情熱的なるもの、理念的なるもの及び浪漫的なる一切のものは、本質的に詩精神の泉源する母岩である。そして日本の文壇は、今やその母岩の発掘に熱意している。単に文壇ばかりではない。日本の文化と社会相の全部を通じて、詩精神が強く熱意されてる事、今日の如き時代はかつて見ない。過去約十年の間に、十数版を重ねて一万余人の読者に読まれたこの小著が、長い間の悪い時代を忍びながらも、かかる今日の時潮を先駆して呼ぶために、多少の予言的責務を尽したかも知れないことに、著者としての自慰を感じて
此所に序文を書くのである。
西暦一九三八年五月
著者
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