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 もし果してそうであり、詩の詩たる所以ゆえんが韻文であるとするならば、およそ韻律の形式によって書かれたすべてのものは、必然に皆詩と呼ばるべき文学に属するだろう。然るに世には、正則なる律格や押韻やの形式をもっていながら、本質上に於て詩と称し得ないような文学がある。即ち例えば、ソクラテスが韻文修辞の練習として、獄中で書いたと言われるイソップ物語の押韻訳や、アリストテレスが書いたと言われる、同じ押韻の哲学論理や、或は我が国等によく見る道徳処世の教訓歌、学生が地理歴史の諳記あんきに便する和歌等のものである。これ等の文字は、確にだれがみても異存のない、文字通りの正則な韻文であるにかかわらず、本質上から詩と呼ぶことができないのである。反対に一方には、ツルゲネフやボードレエルの書いた詩文の如く、散文の形式であるにかかわらず、本質から詩と呼ばれてる一種の文学、即ち所謂いわゆる「**散文詩」がある。
 されば詩の答解は、散文(PROSE)に対する韻文(VERSE)と言う如き、単純な断定によっては尽し得ない。すくなくともこの答解は、その「散文」「韻文」等の語に特殊な解説を附さない限りは、形式からの見方としても、合理的な普遍性を持たないだろう。もし実に合理的のものであったら、形式がそれ自ら内容の投影である故に、本質に於て詩と考え得ないような文字を、外見上から紛れ入れるようなことは無いわけである。故に形式からも内容からも、従来詩に就いて答解されたすべてのものは、一として合理的な普遍性を有していない。詩とは何ぞや? という問に対して、過去に人々が答えたすべてのものは、部分的な偏見に執した誤謬ごびゅうである、もしくは特殊の窓を通して見た、個人の独断的主張であるかであって、一般に普遍的に、どんな詩にもどの詩人にも、共通して真理である如き答解は、かつて全く無かったのである。
 そこで本書は、この普遍的な解答をするために、内容と形式との、二つの方面から考察を進めて行こうと思っている。けだし詩とは「詩の内容」が「詩の形式」を取ったものであるからだ。そこで本書の前半を内容論とし、後半を形式論とし、前のものの肖像が、後のものの鏡面に映り出してくるように、論述を組織したいと思っている

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