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主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態なわざが、実際にできるはずがないからだ。しかもこうした思想が、さも当然のように行われるのは、この場合に於ける「自我」が、常に「感情」を指してるからだ。即ち「自我を離れる」という意味は、感情的な態度を排して、理智的な冷静の態度を取ると言う意味である。反対に「自我に執する」とは、感情的な態度を取ることを意味している。
 かく「自我」と「感情」とは、心理上において同字義に解釈される。ゆえに主観的なるものは、必然に皆感情的である。たとえば前の例において、西行の歌やユーゴーの小説やが、外界の自然や、社会を題材としたものであるにかかわらず、それの批判が、いつも主観的と評するのは、表現の態度が感情的で、作家の情緒や道徳感やで、世界を情味ぶかく見ているからである。これに反して、自然派等の小説が、作家の私生活を書いていながら、一般に客観的と評されているのは、その描写の態度が冷静であり、知的な没情感の観照をしているからである。そこで芸術上の主観主義とは、感情や意志を強調する態度を言い、客観主義とは情意を排し、冷静な知的の態度によって、世界を、無関心に観照する態度を言う。
 されば常に言われる如く、客観はきまって「冷静なる客観」であり、主観は常に「熱烈なる主観」である。この逆即ち「冷静なる主観」や「熱烈なる客観」などは、宇宙のどんな言語にも存在しない。熱と主観は一語であり、冷と客観は一義である。それ故にまた、あらゆる主観芸術の特色は温感であり、あらゆる客観芸術の特色は冷感である。多くの芸術品の上に於て、いかにこの二つの著るしい対照が現われてるかを、さらに次章に於て論説しよう。

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