第二章 音楽と美術
――芸術の二大
範疇――
人間の宇宙観念を作るものは、実に「時間」と「空間」との二形式である。故に
吾人のあらゆる
思惟、及びあらゆる表現の形式も
所詮この二つの範疇にすぎないだろう。そこで
思惟の様式についてみれば、すべての主観的人生観は時間の実在にかかっており、すべての客観的人生観は空間の実在にかかっている。所謂唯心論と唯物論、観念論と経験論、目的論と機械論等の如き、人間思考の二大対立がよるところは、結局して皆此処に基準している。
ところでこの対立を表現について考えれば、
音楽は即ち時間に属し、美術は即ち空間に属している。実に音楽と美術とは、一切芸術の母音であって、あらゆる表現の範疇する両極である。
即ち主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於て典型され、客観主義に属するすべてのものは、美術の表現に於て典型される。故に音楽と美術との比較鑑賞は、それ自ら文芸一般に通じての認識である。
音楽と美術! 何という著るしい対照だろう、およそ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。
先ず音楽を
聴き給え。あのベートーベンの
交響楽や、ショパンの
郷愁楽や、シューベルトの
可憐な
歌謡や、サン・サーンスの雄大な
軍隊行進曲やが、いかに情熱の強い魅力で、諸君の感情を
煽ぎたてるか。音楽は人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。
仏蘭西革命当時の狂児でなくとも、あのマルセーユの歌を聴いて狂熱し、街路に突進しないものがどこにあろうか。
音楽の魅力は酩酊であり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。
或は涙もろくなり、情緒に
溺れ、哀切耐えがたくなって、
嗚咽する。ニイチェの
比喩を借りれば、音楽こそげにデオニソスである。あの
希臘的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神のデオニソスである。
これに対して
美術は、何という静観的な、落着いた、智慧深い瞳をしている芸術だろう。諸君は音楽会の演奏を聴いた後で、直ちに美術展覧会に行き、あの静かな柔らかい落着いた光線や気分の中を、あちこちと鑑賞しつつ歩いた時、いかに音楽と美術とが、芸術の根本的立場に於て、正反対にまで両極していることを知ったであろう。会場の空気そのものすらが、音楽の演奏では熱しており、聴客が狂気的に感激している。そして美術の展覧会では、静寂として物音もなく、人々は意味深げに、鑑賞の智慧
聡い
瞳を光らしている。
かしこには「熱狂」があり、此処には「静観」があり、一方には「情熱」が燃え、一方には「智慧」が澄んでる。
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