然るに一方に於ては、浪漫主義等の主観派文学が、これとちがった人生観を
抱いている。この派の人々に取ってみれば、人生は現に「あるもの」でなく、正に「あるべきもの」でなければならない。この現実するところの世界は、彼等にとって不満であり、欠点であり、悪と虚偽とに充たされている。実に有るべきところの人生は、決してこんな
態であってはならない。真に実在さるべきものは、かかる醜悪不快の現実でなく、すべからくそれを超越したところの、他の「観念の世界」になければならぬ。故にこの派の人々にとってみれば、芸術はそれの理念に向って、呼び求めるところの
祈祷であり、或はこの不満なる現実苦から脱れるための、悲痛な情熱の絶叫である。
それは何等「認識のため」の表現でなく、情意の燃焼する「意欲のため」の芸術である。
かく二つの芸術は、初めから人生観の
根柢を異にしている。一方の者にとっては、
凡て現実する世界(あるところのもの)が真であり、美と完全と調和との一切が、それの観照に於て実在される。即ち彼等の主張によれば、
実在は「現実以外」にあるのでなく、「現実の中に」存在する。(したがって「現実を凝視せよ」という標語が言われる。)ところが一方の人生観では
実在が「現実の中に」あるのでなく、彼自身の理想の中に、観念の中に存するのである。言い換えれば、この現実世界は不満足のもの――肯定できないもの――であって、真に考えらるべき世界は、主観の構成する「観念の中に」実在する。(したがって「現実を超越せよ」という標語が言われる。)
この二つの異った思想に於て、読者は
直に
希臘哲学の二つの範疇、
即ちプラトンとアリストテレスを
聯想するであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、
形而上の
観念界に存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向って
あこがれ、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を
駁して真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、
尚一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。そしてこの二者の議論が尽きない限り、芸術上における二派の論争も
止まないのである。
ともあれ
吾人は、此処に至って「主観主義」と「客観主義」との、芸術上における二派のイズムを分明し得た。要するに二派の相違は、その認定する宇宙の所在が、自我の
観念に於てであるか、もしくは現象界の実体に存するかという、内外両面の区別にすぎない。(これを音楽と絵画について考えてみよ。)然るに観念界に存するものは、常に自我(主観)と考えられ、現象界に存するものは、常に非我(客観)と
思惟されるから、此処に主観派と客観派の名目が生ずるのである
。前に他の別の章に於て、自分は心理学上の見解から、所謂。即ち主観とは「観念」であって、自我の情意が欲求する最高のもの、それのみが真実であり実体であるところの、真の規範されたる自我である。故に「主観を高調する」とは、自己の理想や主義やを掲げて、観念を強く主張することであり、逆に「主観を捨てよ」とは、そうした理想や先入見やの、すべてのイデオロギイとドグマを捨て、非我無関心の態度を以て、この「あるがままの世界」「あるがままの現実」を視よということである。「主観」の何物たるかを述べておいたが、此処に至って
実在論的の見地からも、主観の本性を知ることができるのだ
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