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 同様のイデヤは、絵画についても、音楽についても、詩についても発見され、すべて本質は同じである。しかし就中なかんずく詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであって、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉ばしょうはこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。彼はそれによって旅情を追い、奥の細道三千里の旅を歩いた。西行さいぎょうも同じであり、或る充たされない人生の孤独感から、常に蕭条しょうじょうとした山家やまがをさまよい、何物かのイデヤを追い求めた。思うに彼等の求めたものは、いかなる現実に於ても充足される望みのない、或るプラトン的イデヤ――魂の永遠な故郷――へののすたるじやで、思慕の夢みる実在であったろう。
 思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、ライフの胸底に響く孤独感を訴えるから。実に啄木たくぼくは歌って言う。「生命いのちなき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も知らなかった。ただどこかに、或る時、何等か、燃えあがるような生活の意義をたずね、群の燈火に飛び込むように、全主観の一切を投げ出そうとする、不断のいらだたしき心のあこがれ、実在のイデヤを追う熱情だったされば彼の生涯は、芸術によっても満足されず、社会運動によっても満足されず、絶えず人生の旅情を追った思慕の生活、「何処にかある如し」「遂に何処にか我が仕事ある如し」の傷心深き生活だった。
 だが詩人にして、いずこか傷心深くないものがあるだろうか。支那しなの詩人は悩ましげにも、「春宵しゅんしょう一刻価千金」と歎息たんそくしている。そは快楽への非力な冒険、追えども追えどもとらえがたい生の意義への、あらゆる人間の心に通ずる歎息である。所詮しょせんするに詩人のイデヤは、他のすべての芸術家のそれにまさって、情熱深く燃えてるところの、文字通りの「夢」の夢みるものであろう
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 故に芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そしてなお一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、夢という文字にイデヤの仮名をつけ「イデヤ」として考えると、この場合の実体する意味がはっきりと解ってくる。即ち芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
 多くの生命感ある芸術品は、すべて表現の上に於て、こうした具体的イデヤを語っている。例えばトルストイや、ドストイエフスキイや、ストリンドベルヒやの小説は、各々の作家の立場に於て、何かしらの或るイデヤを、人生に対して熱情している。吾人は彼等の作を通して、そうしたイデヤの熱情に触れ、そこに或る意味を直感する。しかもこれを言語に移して、定義的に説明することが不可能である。なぜならばそれは主義でなく、理想というべきものでもなく、ただ具体的の思いとして、非概念的に直感されるものであるから。そして芸術に於ける批評家のすべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、あるいはトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観えんせいかんを発見したりするのである。
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 具象的なるすべてのものは、種々雑多の複雑した要素から成立している。具象的(具体的)なる存在とは、実に多が一の中でけ合い、部分が全体の中において、有機的に滲透しんとう混和して統一されたものに外ならない。然るに理智の反省は、これを概念によって分析し、有機的な統一を無機的に換え、部分を箇々の戸棚とだなけ、見出しカードの抽斗ひきだしを付けて索引に便利にする。そこで必要の場合に応じ、吾人ごじんはこれ等の索引から、一つの戸棚を見附けて抽き出すのである。これ即ち「抽象」である。ゆえに概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
 そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
 すべての芸術家等が、人生に対して持ってるイデヤは、この種の生活感から欲情される真の具体的のものである。故にそれは主義者の持ってるそれの如く、議論されたり、説明されたり、概念されたりし得るものでない。主義としてのイデヤは、それ自ら抽象上の観念であり、人為的に区別された戸棚をもち、見出し附のカードをもった思想であるから、いつでも反省に照らし出され、自由に弁証され、定義上に説明することも可能であるが、芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである
 故に芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。いわんや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。ただ彼等のイデヤは、その音楽や、絵画や、小説やの、表現に於てのみ語られる。例えば歌麿うたまろの絵画をみて、彼のイデヤがエロチシズムへのなまめかしき没落であることを、明らかにはっきりと知り得るように、芸術の場合に於ては、表現のみが真実のイデヤを語る。そしてかく表現され得るものは、決していかなる概念をも有していない。概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇はんちゅうに属している。
 さて人の知る通り、主義には色々な主義がある。たとえば個人主義、社会主義、無政府主義、国粋主義、享楽主義、本能主義、自然主義、ダダイズム、ニヒリズムなど、いくらでも数えきれないほど無数にあるが、すべて「主義」と名称のつく一切のものは、各々の人が掲げるイデヤであって、その主観に取っての「あるべき世界」を思想している。各々の主義者等は、これによって世界を指導し、改造しようと意思している。故に一切の主義は――どんな主義であっても――本来「。然るに世理想的なもの」でなければならないには「理想的なもの」に反対するところの、反理想主義の主義がある。即ち例えば、「現実主義」とか「無理想主義」とか「虚無主義」とか言う類の主義である。
 これはどうした矛盾であろうか? いやしくも人が主観を掲げ、或る理想への観念を持たない中は、主義と言う如きものはありはしない。然るに彼自身が主義であって、しかも理想を拒絶する主義とはどういうわけか? だがこの不思議は不思議でない。何となれば理想を否定する主義」は、それを否定することに於て彼自身の理想(観念界イデヤ)を見出みいだからだ。例えば仏陀ぶつだの幽玄な哲学は、一切の価値を否定することに於て、逆に価値の最高のもの(涅槃ねはん)を主張している。そして所謂ニヒリズムは、存在のあらゆる権威を否定しながら、逆にその虚無に権威を感じ、そこに彼自身のイデヤを見ている。ダダイズムの如きも「一切の主義を奉じない」と言いながら、その「主義を奉じない主義」を奉じてる。故に絶対の意味で言えば、世にイデアリズムでないところの、どんな主義も有り得ない。一切主義であるすべてのものは、それ自ら理想的であり、観念的であるのだ
 しかし前に述べた通り、芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまからである。以下このことを説明するため、観念に於ける「抽象的のもの」と「具象的のもの」と、即ち観念イデヤとしての抽象物と具象物とが、どこで如何いかに違ってるかを話してみよう。
     第四章 抽象観念と具象観念


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 前章に述べた如く、主観主義の芸術は「観照」でなく、現実の充たされない世界に於て自我の欲情する観念イデヤ(理念)を掲げ、それへのみがたい思慕からして、訴え、なげき、かなしみ、怒り、叫ぶところの芸術である。ゆえに世界は彼等にとって、現にあるところのものでなくしてあるべきところのものでなければならないのだ。
 ではその「あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる観念イデヤであって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。そして各々の主観的文学者は、各々の特殊な観念イデヤから、各自の「夢」と「ユートピア」とを構想し、それぞれの善き世界を造ろうと考えている。しかしながらこのイデヤの中には、概念の定義的に明白している、きわめて抽象的な観念イデヤもあるし、反対に概念のほとんど言明されないような、或る縹渺ひょうびょうたる象徴的、具象的な観念イデヤもある。
 ず第一に、概念の最も判然としているものをあげれば、すべての所謂いわゆる主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――観念イデヤが抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最もはっきりしている。しかしながら芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、おおむねの芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、なお「主義」についての解説を進めて行こう。
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