忍者ブログ
したいほうだい    フログがただ静かに朔太郎を読むブログ                 
| Admin | Write | Comment |
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 かく道徳的情操は、本質に於ての詩的精神であるゆえに、すべて倫理感を基調としている文芸は、必然に「詩」の観念に取り入れられる。しかしながらより真の詩を持つものは、道徳でなくして宗教である。なぜなら宗教は、一層「感情の意味」が濃厚であり、イデヤに於ての夢が深く、永遠に実在するものに対するプラトン的思慕の哲学を持っているから。実に宗教の本質は、或る超現在的なものへのあこがれであり、霊魂のイデヤに向う訴え(祈祷きとう)である。故に宗教的情操の本質は、真の詩が有する第一義感の要素と符節し、芸術の最も高い精神を表象している。実に詩と宗教とは、本質に於て同じようなものである。ただ異なる点は、一方が表現であって、芸術の批判に属し、一方が行為であって倫理の批判に属するということにある。
 宗教のより思弁的で、主観のより瞑想めいそう的なものは、即ち所謂いわゆる哲学である。此処で哲学に就いて一言しよう。哲学という語の狭い意味は、科学に対する哲学――認識論や、形而上けいじじょう学や、論理学や、倫理学や――を意味している。しかしその語の広い意味は、かかる特殊的の学術でなく、一般に哲学する精神」をもったところの、すべての思想や表現について言われる。即ちこの関係は、丁度「詩」という言語が、詩学の形式について言われる場合と、内容的に詩的精神を有するところの、一般について言われるのと同じである。そこで広い意味の哲学――即ち哲学的精神を有するもの――とは、すべて本質に於て主観を掲げ、何かの実在的なもの、もしくは普遍原理的なものに突入しようとする思想であって、例えばルッソオ、ゲーテ、ニイチェ、トルストイ等の詩学的人生評論の類が、みなこれに類している。
 しかし哲学という言語の、さらに一層本質的に拡大された範囲に於ては、すべてイデヤを有する主観、及び主観的表現の一切を包括する。即ち例えば、これによって「芭蕉ばしょうの哲学」とか「ワグネルの哲学」とか「*浮世絵の哲学」とか言われ、さらに或る芸術や文学やが、哲学を有するか否か等が批判される。この意味でいわれる哲学とは、哲学的精神に於ける究極のもの、即ち「主観性」について言われるのである。故に「哲学がない」と言うことは、主観性の掲げるイデヤがない、即ち本質上の詩がないという意味であるかのゲーテが「詩人は哲学を持たねばならぬ」と言ったのも、勿論もちろんこの意味を指すのであろう。
PR
     第十章 人生に於ける詩の概観


 詩の本質するものが、それ自ら「主観的精神」であることは前に述べた。ではこの主観的精神、即ち「詩」は人生のどこにあるだろうか。そして此処ここに人生と言う意味は、人間生活の文化に於ける、価値の顕揚されたものについて言うのである。吾人ごじんはこの章に於て道徳、芸術、宗教、学術等の一切にわたる詩的精神の所在を概観しよう。
 始めにず、道徳的精神について考えよう。道徳的精神はどんなものでも、本質に於て一種の詩的精神であり、詩という言語の広い所属に含まれてる。なぜなら倫理感の本質は、それ自ら感情としてのイデヤを掲げる、主観的精神に外ならないから。特に就中なかんずく愛に於ける情緒の如きは、恋愛と結んで抒情詩じょじょうしの根本のものになっており、人道と結んで主観主義文学――例えば浪漫派など――の主要なモチーヴとなっているほどだ。愛以外の他の道徳感も、すべて人の胸線に響を与え、普遍的なる精神のひろがりを感じさせる。即すべての倫理感は、本質上での美感に属し、詩と同じき高翔こうしょう感や陶酔感やを、その「感情の意味」に於て高調する。此処でついでに、こうした道徳的情操に特色している、二種の異った種別を述べておこう。
 道徳的情操に於て、広く「善」と呼ばれるものには、それぞれの内部的分類がある。例えば「愛」「正」「義」等の者で、多少その倫理的内容を別にし、したがってその情操を異にしている。これ等の中、最も純粋に感情的で、かつ実践的であるものは、言うまでもなく「愛」である。愛には全く論理ロジックがなく、その情操は純一に感傷的で、女性的に、柔和であって涙ぐましい。普通に言う「情緒センチメント」という美感は、この道徳情操に於て最高潮に表象される。かの人道主義や、他愛主義や、その他の博愛教道徳は、すべて情緒センチメントの上に基調している。これに対して「正」や「義」やは、何等かの主義信念の上に立つもので、概して思想的要素を多分に持ってる
 されば一切の主義と名づけるものは、すべてこの倫理的正義感に出発している。たとい徳に反対する主義――例せば悪魔主義や本能主義――のようなものであっても、本質はやはり、別のユニックな正義を信ずるところの、同じ倫理線の上に立っているので、この本質の点から言うならば、世に無道徳的なるいかなる主義もないわけである。そしてこの正義感の情操は、愛のそれと反対であり、男性的で反撥はんぱつの力に強く、意志を強調し、どこか心を高く、上に高翔させるような思いがある。カントが倫理感の本性を説明して、天にありては輝やく星辰せいしん、地にありては不易の善意と言ったのは、その語調さながらに、この種の倫理的情操を明示している。それは愛の情操と並んで、道徳感の二大種目を対立している。(文芸の上に於て、いかにこの対立が現象してくるかは、後に至って解るであろう。)
 夢とは何だろうか? 夢とは「現在ザインしないもの」へのあこがれであり、理智の因果によって法則されない、自由な世界への飛翔ひしょうである。故に夢の世界は悟性の先験的範疇はんちゅうに属してないで、それとはちがった*自由の理法、即ち「感性の意味」に属している。そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在ザインしないものへの憧憬どうけいである。されば此処ここに至って、始めて詩の何物たるかが分明して来た。詩とは何ぞや? 詩とは実に主観的態度によって認識されたる宇宙の一切の存在である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。
 故に「詩」と「主観」とは、言語に於てイコールであることが解るだろう。すべて主観的なるものは詩であって、客観的なるものは詩でないのだ。しかし吾人は、此処で一つの疑問が提出されることを考えてる。なぜなら本書のずっと前の章(主観と客観)で言ったように、詩それ自体の部門に於て、主観主義と客観主義との対立があるからだ。詩がもし主観と同字義であるならば、詩に於ける客観派と言うものは考えられない。次にまた或る多くの芸術品は、きわめて客観的なレアリズムでありながら、本質に於て強く詩を感じさせる魅力を持ってる。これはどうしたものだろうか。すべてこれ等のことについて、本篇と次篇の全部にわたり、徐々に解明して行くであろう。

* カントは「理性」を二部に区分し、因果の理性と自由の理性を対立させた。即ち所謂「純粋理性」と「実践理性」とがこれである。カントの意味では、この自由の理性が倫理にのみ関している。しかしそれが「感情の意味」を指す限り、単なる道徳感ばかりでなく、芸術上の美的理性をも入るべきである。
 先ず神話と科学を考えてみよ。昔の人は月を見て、嫦娥じょうがやダイヤナのような美人が住んでる、天界の理想国を想像していた。然るに今日の天文学は、月が死滅の世界であって、暗澹あんたんたる土塊にすぎないことを解明している。そしてこの科学の知識は、月に対する吾人の詩情を幻滅させる。なぜならそこには、自由な空想や聯想れんそうを呼び起すべき、豊富な感情としての意味がなく、冷たい知性の意味しか感じられないからだ。一般に夜の景色や霧のかかった風景やが、白昼のそれに比して詩的に感じられる理由も、またこれと同じである。即ち前の者には空想と聯想の自由があり、主観的なる感情を強く呼び起すのに、白昼に照らし出されたものには、そうした感情の意味がなく、反対に知的な認識を強制し、レアリスチックな観察をさせるからである。奈良と大阪との関係もこれに同じで、前者には歴史的の懐古があるのに、後者にはその感情の意味がなく、実務的な商業都市で、すべてが知性の計算に属するからだ。
 かく空想や聯想の自由を有して、主観の夢を呼び起すすべてのものは、本質に於て皆「詩」と考えられる。反対に空想の自由がなく、夢が感じられないすべてのものは、本質に於ての散文であり、プロゼックのものと考えられる。故に詩の本質とするすべてのものは、所詮しょせん「夢」という言語の意味に、一切尽きている如く思われる。しかしながら吾人の仕事はこの「夢」という言語の意味が、実に何を概念するかを考えるのである。
 同様の事情によって、都会人の詩は常に田園にあり、田舎人の考える詩は都会にある。前の例に於て、阿弗利加の内地や熱帯の孤島を詩的と考えるのは、煩瑣はんさな社会制度に悩まされて、機械や煤煙ばいえんやのために神経衰弱となってるところの、一般文明人の主観である。反対にそうした蛮地に住んでいる土人は、近代文明の不思議な機械や、魔術のような大都会や、玻璃宮はりきゅうの窓に映る不夜城の美観を眺めて、この上もなく詩的なものに思うであろう。現代の吾人にとってみれば、駕籠に乗って旅行することは詩的であるが、昔の日本人にとってみれば、これくらいプロゼックのものはなかったろう。むしろ彼等は、西洋の陸蒸気おかじょうきに乗って旅することを、無限の詩的に考えていた。
 かく個人的の立場で考えれば、各々の人の思惟することは、各々について皆ちがっている。故に何が「詩的なもの」であり、何が「散文的なもの」であるかは、一も明白な判定を下し得ない。畢竟各々の人の環境や主観によって、一々その見るところを別々にし、したがって詩の対象が異ってくる。そしてかくの如くば、吾人は遂に絶望する外ないであろう。けれども認識の対象は、何物が詩的であるかと言うのでなくして、詩的精神そのものの本体が、いかなる性質であるかという一事にかかっている。換言すれば問題は、山の景色が詩的であるか、海の景色が詩的であるかという、その対象の判別ではなく、こうした一般のものについて、吾人の心に感じられる「詩」の本質が、いかなる本有性のものであるかに存するのである。
 そこで吾人は、今述べたあらゆる一般の場合について、個々に共通する本質点さがしてみよう。もちろんこの場合の思索に於ては、一切詩の対象について見ないで、ただそれを心に感ずるところの、人の心意のみを観察する。故に始めに例題した多数者の通解も、後に説いた個人的な特殊な場合も、すべてこの場合には同じであって、無差別一様に考え得られる。そもそもこの本質は、何だろうか。第一に明白に解ってるのは、すべて見る人の立場に於て、平凡に感じられるもの、ありふれて感じられるもの、見慣れて退屈に思われるもの、無意味で刺戟を感じないもの等は、決して詩的な印象を呼び起さないという事――即ちプロゼックに感じられるということ――である。
 およそ詩的に感じられるすべてのものは、何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地になみを呼び起すところのものであって、現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現在ザインしてないもの」である。故に吾人はすべて外国に対して詩情を感じ、未知の事物にあこがれ、歴史の過去に詩を思い、そして現に環境している自国やよく知れてるものや、歴史の現代に対して詩を感じない。すべてこれ等の「現在ザインしているもの」は、その現実感の故にプロゼックである。
 故に詩的精神の本質は、第一に先ず「非所有へのあこがれ」であり、或る主観上の意欲が掲げる、夢の探求であることが解るだろう。次に解明されることは、すべて詩的感動をあたえるものは、本質において「感情の意味」をもっているということである。この事実を例について証明しよう。例えば前の多くの場合で、神話が科学よりも詩的であり、月光の夜が白昼よりも詩的であり、奈良が大阪よりも詩的であり、恋愛が所帯暮しよりも詩的であり、秀吉が家康よりも詩的であるとして、一般の人々に定見されてるのはどういうわけか。
≪ Back  │HOME│  Next ≫

[5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15]

Copyright c 詩態放題 [管理フログ]。。All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog / Material By 深黒 / Template by カキゴオリ☆
忍者ブログ [PR]