故に
芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに
芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ
VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そして
尚一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、
夢という文字にイデヤの仮名をつけ「夢」として考えると、この場合の実体する意味が
はっきりと解ってくる。即ち
芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
多くの生命感ある芸術品は、すべて表現の上に於て、こうした具体的イデヤを語っている。例えばトルストイや、ドストイエフスキイや、ストリンドベルヒやの小説は、各々の作家の立場に於て、何かしらの或るイデヤを、人生に対して熱情している。吾人は彼等の作を通して、そうしたイデヤの熱情に触れ、そこに或る意味を直感する。
しかもこれを言語に移して、定義的に説明することが不可能である。なぜならばそれは主義でなく、理想というべきものでもなく、ただ具体的の思いとして、非概念的に直感されるものであるから。そして芸術に於ける
批評家の為すべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、或はトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観を発見したりするのである。PR