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具象的なるすべてのものは、種々雑多の複雑した要素から成立している。具象的(具体的)なる存在とは、実に多が一の中で融け合い、部分が全体の中において、有機的に滲透混和して統一されたものに外ならない。然るに
理智の反省は、これを概念によって分析し、有機的な統一を無機的に換え、部分を箇々の戸棚に別け、見出しカードの抽斗を付けて索引に便利にする。そこで必要の場合に応じ、吾人はこれ等の索引から、一つの戸棚を見附けて抽き出すのである。これ即ち「抽象」である。故に概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、
何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに
人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる
具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
すべての芸術家等が、人生に対して持ってるイデヤは、この種の生活感から欲情される真の具体的のものである。故にそれは主義者の持ってるそれの如く、議論されたり、説明されたり、概念されたりし得るものでない。主義としてのイデヤは、それ自ら抽象上の観念であり、人為的に区別された戸棚をもち、見出し附のカードをもった思想であるから、いつでも反省に照らし出され、自由に弁証され、定義上に説明することも可能であるが、
芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである。
故に
芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。況んや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。ただ彼等のイデヤは、その音楽や、絵画や、小説やの、表現に於てのみ語られる。例えば
歌麿の絵画をみて、彼のイデヤがエロチシズムへの
艶めかしき没落であることを、明らかに
はっきりと知り得るように、芸術の場合に於ては、表現のみが真実のイデヤを語る。そしてかく表現され得るものは、決していかなる概念をも有していない。
概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇に属している。
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