第八章 感情の意味と知性の意味
自然主義の写実論は、世界をその存在のままに於て、少しも主観に於ける選択をせず、物理的レンズの忠実さで書けと言った。
勿論彼等の芸術論は、当時の浪漫派の文学――それは偏狭な道徳観と審美観とで、あまり多くの選択をしすぎた、――に対する反動として言われたもので、その限りに於ての
啓蒙的意義を有する。しかしこうした写実論から、その啓蒙的意義を除いて考えたら、世にこれほどセンスの欠けた思想は無かろう。なぜなら主観に於ける選択なくして、いかなる認識も有り得ないから。
畢竟、認
識するということは、この混沌無秩序な宇宙について、主観の趣味や気質から選択しつつ、意味を創造するということに外ならない。
故に人間によって見られた世界は、それ自ら「意味としての存在」である。そして「価値」とは、意味の普遍に於ける証価を言う。
あらゆる人間文化の意義は、宇宙に於ける意味に於て、真善美の普遍価値を発見することに外ならない。されば
道徳と言い、宗教と言い、学術と言い、芸術と言い、一切にわたる人間文化の本質は、結局して意味の最も深いものを、その普遍的証価に於て発見し、人生に一の創造をあたえることにかかっている。
では意味の最も深いものは何だろうか。
主観的に考えれば、意味とは気分、情調である。人が酒に酔ってる時、世界は意味深く感じられる。恋をしている時、世界は色と影とに充ち、到るところに意味深く感じられる。そして道徳や正義感に燃え立ってる時、
或は宗教的な高い気分になってる時、すべて人生は意味深く、
汲めども尽きないものに感じられる。そこで主観に於けるこれ等の気分を、逆に呼び起してくるもの、即ち感情の高空線に音波を伝え、心の電気を誘導させてくれるものは、すべて、意味としての認識価値があるものである。然るにこれ等の気分感情は、すべて心を
高翔させ、
浪立たせ、何等か普遍に向っての
ひろがりを感じさせるところのもの、即ち美学上の
所謂「美感」に属するもので、普通の私有財産的な無価値の感情、即ち美学上の所謂「実感」とちがうのである。
実感には意味の感なく、私人的にしか価値がないのに、美感は普遍的のものであって、広く万人の胸に響をあたえ、かつ表現への強い衝動を感じさせる。一般に
宗教感、倫理感、及び芸術的音楽感の本質が此処に存することは言うまでもない。
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