第七章 観照に於ける主観と客観
いかなる純情的主観主義の芸術でも、観照なしに表現の有り得ないことは、前章に述べた通りである。では
主観主義と客観主義は、どこでその態度特色を異にしているのだろうか。表現に於ての観照を持つことでは、両者共に一致している。しかも自然派等のレアリズムの文学では、浪漫派等を称して感傷的と言い、客観性が無いと言って非難する。たしかに両派の観照に於ける態度は、根本に於てちがったところがなければならぬ。
然り。そこには一の
明白な相違がある。即ち主観主義の芸術では、観照が観照として独立せず、いつも主観の感情と結びついてる。換言すれば彼等は、対象の物に就いて物を見ずして、それを自己の主観に引き入れ、気分や感情の中に
融かしてしまう。例えば恋愛詩を書いてる人は、恋愛の情緒の中に
溺れており、その感激の高調で表現している。この場合に表現が、感情を言語の上に照らすところの、
智慧の不断な観照と共に行われているということは、自ら意識的に自覚しないほどでさえある。対象が心内になく、外界にある場合も同様で、例えば西行のような詩人は、自然の風物について、自然それ自体を観照しているのではなく、いつも主観の感情を高調し、感情それ自身の気分の中に、自然を融かし込んでいるのである。
故に彼等の認識は、知的に冷徹した認識でなく、感情の温かい
靄の中で、いつも
人懐かしげに
霞んでいる。それは
主観に融け込んでいる客観であり、知的に分離する事のできないものだ。然るにレアリズムの客観派では、こうした感情的態度が排斥される。彼等は物に就いて物を見、科学的冷静の態度に於て、観照を明徹にしようとする。故に主観を排斥し、感情によって物を見ずして、冷酷透明な
叡智によって、真に客観的に徹しようとするのである。故に前者の態度は、つまり「
主観のための観照」であり、後者は「
観照のための観照」である。
しかしながら実際には、真に「観照のための観照」を考えている芸術は、
殆ど
稀れにしか無いであろう。特に文学に於てはそうであって、たいていの多くの者は、この観照の背後に於て、別の主観が「意味」を主張しているのである。丁寧に説明すれば、そうした真実の世界をレアリスチックに描き出すことから、作家自身の情感している或る主観を、読者に訴え、暗示しようとしているのである。つまり言えば
両者の相違は、前者が直接に主観を露出し、訴え、叫び、主張しているところのものを、後者は絵画のように描き出し、人生の縮図を見せることから、主観に於ける作家の意味を、読者に暗示するのである。即ち
前者の行き方は音楽であり、後者の行き方は絵画である。
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