第六章 表現と観照
以上各章にわたって、
吾人は芸術に於ける二大
範疇、即ち主観主義と客観主義とを対照して来た。そしてあらゆる著るしいコントラストで、芸術の南極と北極とを対照した。しかしながら
地球の極地は、一つの地軸に於て両端しており、人が想像するよりも、実には殆ど酷似している。芸術に於ける二つの極地も、決して外見のようではなく、実には同じ本質点で、互に共通しているのである。そしてこの共通点は、共にこれ等の芸術が成立している、表現に於ける根本のもの、即ち
観照の智慧である。
吾人は前の章に於て、
主観主義が情意本位の芸術であり、客観主義が観照本位の芸術であることを解説した。しかしいかなる主観主義の芸術も、本来観照なしに成立しないことは
勿論である。なぜなら
芸術は――どんな芸術でも――表現に於てのみ存在し、そして表現は観照なしに有り得ないから。明白に知れている事は、感情のどんな熱度も、決して表現を生み出さないということである。芸術に於て、感情はその動機――芸術を生もうとする熱意にすぎない。
表現するものは感情でなく、この感情を鏡に照し、文学や音楽やに映すところの、知性に於ける認識上の才能である。
この事実を知るために、
先ず音楽について考えよう。音楽は主観芸術の典型であり、純一に感情的な表現であるけれども、智慧のすぐれた観照なしには、その最も単純な
小唄すら作り得ない。なぜなら
音楽の表現は、音の高低強弱に於ける旋律とリズムを通じて、心の悲しみや喜びやを、それの気分さながらに描出するのであるから、音楽家が音によって心内の情緒を描くのは、画家が色や線やによって、外界の物象を
さながらに描くと同じく、ひとしく対象の観照である。ただ両者の異なるところは、その
対象が心内と外界と、時間と空間とに於ける別にすぎない。
抒情詩がこれにまた同じである。
詩人にしてよく感情の機密を捉え、それの呼吸や律動やを真さながらに表現するのでなかったら、どうして詩が人を感動さすことがあり得ようか。そして
「表現する」ことは、それ自ら「観照する」に外ならない。故にもし感情のみが高調して、これを観照する智慧が無かったならば、吾人は野蛮人や野獣のように、ただ狂号して
吠え、無意味な絶叫をするのみだろう。けだし詩人と
一般人と、芸術家と一般人との、ただ一つの相違が此処にある。前者はそれを表現し得、後者はそれを表現し得ない。
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