かく一方から考えると、
意味の深さは感情の深さに比例し、より情線に振動をあたえるものほど、より意味の深いものである。然るにまた一方から、客観の立場に於て考える時、
意味の深さは認識の深さに比例する。より深く真実にふれ、事物や現象の背後に於て、普遍的に法則するもの(
科学的真理)や、或はその科学的真理の上に於て、さらに法則を法則する一切の根本原理(
哲学的真理)にふれた時、
吾人はそれを
意味深長と云う。この場合の「意味の感」は、言うまでもなく合理感で、理性の抽象する概念であるけれども、
理性が理性自身として、直接に意味の感を伝えるものは、芸術上に於ける直感的理性(観照の智慧)であって、それの認識が深いものほど、直感的に意味深く感じられる。そしてこの
直感的理性は、
その概念性の有無を除いて、
本質には科学や哲学の認識と同じことで、常に事物と現象の背後に於て、或る普遍的に実在するもの――即ち自然人生の本有相――を、
観照の面に映し出そうと意図している。
かくの如く「意味の深さ」は、一方では感情によって測量され、一方では理性によって測量される。しかし
理性が理性自身として、意味を測量することはできないだろう。
意味は一つの「感じ」であって、広い意味の
感情に属する故に、
所詮言えば一切は、主観上での測量に帰してしまう。けれども「
感情的な意味」と「
知性的な意味」とは、たしかにその意味に於ける、感じの色合や気分がちがっている。例えば吾人が、音楽に酔って人生を意味深く感ずる時と、アインスタインの相対性原理を始めて学んで、世界の新しい意味を感じた時と、同じく「意味の感」ではあるが、その感の色に相違があり、どこかに特別のちがいがある。そしてこの
「意味の感」に於ける解釈の相違から、実にプラトンとアリストテレスが別れたのだ。
プラトンとアリストテレス、哲学上に於ける浪漫主義者と現実主義者の差別については、既に他の章でも述べたけれども、此処でさらに根本の本質に触れねばならぬ。
肝腎なことは、
プラトンとアリストテレスが、本質に於て全く一致しているということである。彼等は共に
形而上学者であって、現象の背後に実在する、一の本体的なるものを求めた。ただ異なるのは、
前者の態度が瞑想的、哲学的であったに反し、
後者の態度が経験的、科学的であったことだ。換言すれば、
前者が時間の「観念界」に於て、直ちに瞑想から達しようとした実在を、後者は空間の現象界から、物質の実体を通じて見ようとした。しかも究極に於て、二人の見ようとしたものは一であり、ひとしく
形而上の実在だった。にもかかわらず、何故にあの悲痛な師弟は、最後に
喧嘩をしてしまったのか。けだしこの悲劇は、
弟子が師の「詩」を理解し得ず、師が弟子の「散文」を読まなかったという、気質の避けがたい運命にあったのだ。PR