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 プラトンについて思惟しいされるのは、何よりも彼が詩人であったということである。彼に於ては、冷たい、氷結した、純理的のものを考えることができなかった。彼のイデヤは詩的であり、情味の深い影を帯びた、神韻縹渺ひょうびょうたる音楽である。これに反してアリストテレスは、気質的の学者であって、古代に於ける典型的の学究である。彼には詩的な情趣が全く無かった。故に彼の哲学した実在は、純然たる理智的の概念であり、冷たい、没情味の、純学術上の観念だった。即ち換言すれば、アリストテレスの観念は純理的の意味であって、プラトンのそれは宗教的の意味である。プラトンにあっては、イデヤが感情の中にかされ気分の情趣あるもやでかすんでいる。故にアリストテレスの純理を以て、これを理解することは不可能だった。そこでは感情と智慧が融化しており、分離することができないのだ。
 このプラトンの観念こそ、それ自ら文芸上に於ける主観主義者のイデヤであって、またその観照に於ける法則である。前章に述べたように、主観主義者の観照は、常に感情と共に働き、感情の中に融化しており、主観と分離して考えられないところの、情趣の温かいものである。これに反してレアリズムの客観主義者は、智慧の透明さを感覚しつつ、観照を意識しつつ観照している。故に彼等は、それの透明をくもらすところの、すべての主観的なもの、情感的なものを追い出してしまう。彼等はアリストテレス的没主観の認識で、事物の本相に深く透入しようと考えている。
 だから主観派と客観派とは、結局言ってそのイデヤする「真実」の意味がちがうのである。一方は宗教感的に、情感の線に触れる実在レアールを求めているのに、一方は純粋に知的であり、観照的に明徹した真実を探している。したがって両派の「真実」に関する意見は、いつもこの点で食いちがってくる。かの自然派が浪漫主義を非難したり、写実主義が空想的文学を虚偽視したりするのは、畢竟客観主義の意味によって「真実」を解するからで、プラトンの不幸な弟子、アリストテレスが師を理解し得なかったと同じである。もしプラトンの立場で見れば、どんな観照に徹した写実主義の文学すら、その真理の深さに於て、感傷的なる恋愛詩の一篇にすら及ばないのだ。故に賢人パスカルはこれを言った。いわく、*感情は理智の知らない真理を知ってると。

* パスカルの言葉は、長く人々に神秘視された。なぜなら「知る」ものはすべて知性であるのに、感情が理智の知らないものを知るというのは、眼なくして物をる不思議であるから。しかしパスカルの言う意味は、そうした無智の感情を指すのでなくして、智慧の認識と共に融け合ってる感情――即ち主観的態度の観照――を指しているのである。
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