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 さればいやしくも表現があり、芸術があるところには、必ず客観の観照がある。実に伊太利イタリーの美学者クローチェが言う如く、認識(観照)に無きものは表現に無く、表現に無きものは認識にないのである。吾人は知らないことを書き得ない。そして「知る」ということは、芸術上の言語で「観照」を意味するのだ。故に「観照」と「表現」とは同字義シノニムであり、したがってまたそれが「芸術」とイコールである。実に人間のあらゆる生活ライフは、ひとしく常に考え、ひとしく悩み、ひとしく感じ経験している。しかも大多数は表現し得ず、芸術家のみが為し得るのは何故か。これ彼等にのみ恵まれたる特殊の才能、即ち所謂いわゆる芸術的天分があるからである。
 故に一切の芸術は、音楽であると美術であると、詩であると小説であるとを問わず、すべて皆観照によってのみ成立する。然るに観照されてるものは、その限りに於て客観的であるゆえに、言語の純粋の意味に於ける主観――もしそうした言葉が言えるとすれば――は、芸術上に於て存在しないことが解るであろう。此処に於てか吾人は、表現としての主観主義と客観主義とが、どこで特色を異にするかを、さらに今一度考え直して見ねばならない。

 李白りはくは長安の酒家に酔って、酒一斗詩百篇であったと言う。だがこの意味は、一方に酒を飲みつつ、一方に詩を書いていたということで、泥酔しつつ詩作したということではないだろう。酒に酔ってる時は、感情が亢進こうしんして世界が意味深く見えるけれども、実際には決してどんな表現もないのである。なぜならアルコールの麻酔が、観照の智慧を曇らしてしまうからだ。酔人には芸術がない
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