人々は一般に、
何を詩的と考え、何をプロゼックと思惟するだろうか。もちろん後に言う如く、
こうした感じは人によってちがうのである。だが思考を簡明にするために特に一般の場合について、
大多数の人が一致している例証を取ってみよう。そして出来るだけ多数の例をあげてみよう。
先ず自然について考えれば、一般に人々は、青い海や松原があるところの、風光
明媚の景を詩だと言う。もしくは月光に照らされてる、
蒼白い夜の
眺めを詩的だと言う。
或は霧や
霞のかかってる、
朦朧とした景色を詩的だと言う。そしてこの反対のもの、即ち
平凡にして魅惑のない景色や、昼間の白日に照らされる街路や、明らさまに露出されてる眺めやは、すべて詩のないプロゼックのものだと言う。
同じような感じ方から、人々は或る都会を詩的と言い、他の都会をプロゼックだと言う。例えば定評は、
奈良や京都を指して「詩の都」と言い、大阪や東京やをプロゼックだと言う。或は
伊太利のヴェニスを詩的と言い、マンチェスタアや
紐育をプロゼックだと言う。また熱帯無人境の
阿弗利加内地や、原始的なる南洋タヒチの蛮島等は、単にそれを思うだけでも、吾人にとって詩的の興奮を感じさせる。そしてこの反対は、到るところに見慣れている、吾人の文明的社会である。
人物について言えば、
秀吉やナポレオンやの生涯は詩的であるが、徳川家康の成功は散文的だ。同様にまた
紀文大尽の成金は詩的であって、安田善兵衡の勤倹貯金はプロゼックだ。
仏蘭西革命の原動力たるルッソオは、純粋に詩人的の人物として感じられるが、革命の実行家たるロベスピエールは、より散文的の人物に感じられる。そして一般について言えば、
運命の数奇を極め、境遇の変化に富んだ人の生涯は詩的であるが、平凡無為に終った人の生涯は散文的だ。PR