同様の事情によって、都会人の詩は常に田園にあり、田舎人の考える詩は都会にある。前の例に於て、阿弗利加の内地や熱帯の孤島を詩的と考えるのは、
煩瑣な社会制度に悩まされて、機械や
煤煙やのために神経衰弱となってるところの、一般文明人の主観である。反対にそうした蛮地に住んでいる土人は、近代文明の不思議な機械や、魔術のような大都会や、
玻璃宮の窓に映る不夜城の美観を眺めて、この上もなく詩的なものに思うであろう。現代の吾人にとってみれば、駕籠に乗って旅行することは詩的であるが、昔の日本人にとってみれば、これくらいプロゼックのものはなかったろう。むしろ彼等は、西洋の
陸蒸気に乗って旅することを、無限の詩的に考えていた。
かく個人的の立場で考えれば、各々の人の思惟することは、各々について皆ちがっている。故に何が「詩的なもの」であり、何が「散文的なもの」であるかは、一も明白な判定を下し得ない。畢竟
各々の人の環境や主観によって、一々その見るところを別々にし、したがって詩の対象が異ってくる。そしてかくの如くば、吾人は遂に絶望する外ないであろう。けれども
認識の対象は、何物が詩的であるかと言うのでなくして、詩的精神そのものの本体が、いかなる性質であるかという一事にかかっている。換言すれば問題は、山の景色が詩的であるか、海の景色が詩的であるかという、その対象の判別ではなく、こうした一般のものについて、
吾人の心に感じられる「詩」の本質が、いかなる本有性のものであるかに存するのである。
そこで吾人は、今述べたあらゆる一般の場合について、個々に
共通する本質点を
探してみよう。もちろんこの場合の思索に於ては、一切詩の対象について見ないで、ただそれを
心に感ずるところの、人の心意のみを観察する。故に始めに例題した多数者の通解も、後に説いた個人的な特殊な場合も、すべてこの場合には同じであって、無差別一様に考え得られる。そもそもこの本質は、何だろうか。
第一に明白に解ってるのは、すべて見る人の立場に於て、平凡に感じられるもの、ありふれて感じられるもの、見慣れて退屈に思われるもの、無意味で刺戟を感じないもの等は、決して詩的な印象を呼び起さないという事――即ちプロゼックに感じられるということ――である。
およそ詩的に感じられるすべてのものは、何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に
浪を呼び起すところのものであって、現在のありふれた環境に無いもの、即ち「
現在してないもの」である。故に吾人はすべて外国に対して詩情を感じ、未知の事物にあこがれ、歴史の過去に詩を思い、そして現に環境している自国やよく知れてるものや、歴史の現代に対して詩を感じない。すべてこれ等の「
現在しているもの」は、その現実感の故にプロゼックである。
故に
詩的精神の本質は、第一に先ず「非所有へのあこがれ」であり、
或る主観上の意欲が掲げる、夢の探求であることが解るだろう。次に解明されることは、すべて詩的感動をあたえるものは、
本質において「感情の意味」をもっているということである。この事実を例について証明しよう。例えば前の多くの場合で、神話が科学よりも詩的であり、月光の夜が白昼よりも詩的であり、奈良が大阪よりも詩的であり、恋愛が所帯暮しよりも詩的であり、秀吉が家康よりも詩的であるとして、一般の人々に定見されてるのはどういうわけか。
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