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 かく道徳的情操は、本質に於ての詩的精神であるゆえに、すべて倫理感を基調としている文芸は、必然に「詩」の観念に取り入れられる。しかしながらより真の詩を持つものは、道徳でなくして宗教である。なぜなら宗教は、一層「感情の意味」が濃厚であり、イデヤに於ての夢が深く、永遠に実在するものに対するプラトン的思慕の哲学を持っているから。実に宗教の本質は、或る超現在的なものへのあこがれであり、霊魂のイデヤに向う訴え(祈祷きとう)である。故に宗教的情操の本質は、真の詩が有する第一義感の要素と符節し、芸術の最も高い精神を表象している。実に詩と宗教とは、本質に於て同じようなものである。ただ異なる点は、一方が表現であって、芸術の批判に属し、一方が行為であって倫理の批判に属するということにある。
 宗教のより思弁的で、主観のより瞑想めいそう的なものは、即ち所謂いわゆる哲学である。此処で哲学に就いて一言しよう。哲学という語の狭い意味は、科学に対する哲学――認識論や、形而上けいじじょう学や、論理学や、倫理学や――を意味している。しかしその語の広い意味は、かかる特殊的の学術でなく、一般に哲学する精神」をもったところの、すべての思想や表現について言われる。即ちこの関係は、丁度「詩」という言語が、詩学の形式について言われる場合と、内容的に詩的精神を有するところの、一般について言われるのと同じである。そこで広い意味の哲学――即ち哲学的精神を有するもの――とは、すべて本質に於て主観を掲げ、何かの実在的なもの、もしくは普遍原理的なものに突入しようとする思想であって、例えばルッソオ、ゲーテ、ニイチェ、トルストイ等の詩学的人生評論の類が、みなこれに類している。
 しかし哲学という言語の、さらに一層本質的に拡大された範囲に於ては、すべてイデヤを有する主観、及び主観的表現の一切を包括する。即ち例えば、これによって「芭蕉ばしょうの哲学」とか「ワグネルの哲学」とか「*浮世絵の哲学」とか言われ、さらに或る芸術や文学やが、哲学を有するか否か等が批判される。この意味でいわれる哲学とは、哲学的精神に於ける究極のもの、即ち「主観性」について言われるのである。故に「哲学がない」と言うことは、主観性の掲げるイデヤがない、即ち本質上の詩がないという意味であるかのゲーテが「詩人は哲学を持たねばならぬ」と言ったのも、勿論もちろんこの意味を指すのであろう。
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