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 こうした自然主義の文学論が、根本に於て詩と両立できないもの、否まさしく詩の讐敵しゅうてきであり、詩的精神の虐殺者であることは言うまでもない。だが我々は、文学の主張について聞くことなしに、実の作品について観察しよう。何となれば芸術は、多くの場合に作品と主張とが一致せず、時に全く矛盾する場合がすくなくないから。そして自然主義の文学が、実に正しくその通りであった。例えばあのゾラを見よ。モーパッサンを見よ。ツルゲネフを見よ。果して彼等の作品に主観がないか。反対にむしろ、倫理感や宗教感が強すぎるほどではないかすべて彼等の作品は、熱烈なる主観によって、何物かの正義を主張し、社会の因襲に対してきばをむいてる、憎悪ぞうおはげしい感情で燃焼されてる。
 この不思議な矛盾した文学、自然主義について少しく語ろう。仏蘭西フランス十九世紀に起ったこの文学運動は、正しく浪漫派への反動であり、時代思潮の啓蒙けいもう運動を代表している。何よりも彼等は、浪漫派の上品な甘ったるさと、愛や人道やに惑溺わくできしている倫理主義を、根本的にきらったのである。彼等は当時の科学思潮と唯物観とを信奉して、ひとえに懐疑的態度を取り、前代浪漫派の楽天観に反対した。そしてこのニヒリスティックな人生観から、社会のあらゆる道義観や風俗に挑戦ちょうせんし、故意に人生の醜悪を描き、人間性の本能を高調し、隠蔽いんぺいされたものを引っぺがし、性の実感的卑猥ひわいを書き散らした。
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 しかし吾人は、この章に於て特に文学のことを考えよう。なぜなら詩の形式は、本来文学に属しており、小説や戯曲と密接な関係を有するから。さて文学――詩以外の文学――に於て、どこに詩的な表現があるだろうか。
 第一に考えられるのは、ポオの小説や、メーテルリンクの戯曲やである。一般に言われる如く、これ等は「散文学としての詩」であって、小説や戯曲の形に於ける、詩的精神の最も高いものを表現している。吾人はポオの『アッシュル館の没落』や、メーテルリンクの『タンタージルの死』を読む時に、小説や戯曲を読むというよりは、むしろ全くの純粋の詩を読んでいるような感がする。すくなくともこれ等の文の本質は、詩の持っている第一義感の精神と共通している。そして詩に於ける第一義感の精神が、宇宙の実在性に触れようとするメタフィジックの宗教感であること――それ故に宗教が詩的精神の最高部であること――は、前章に於て既に説いた。(前章参照)
 かく宗教観に情操するものを、芸術上で普通に「象徴」と言ってる。この象徴に関する別の解義は、後に他の章で詳説するが、とにかくポオやメーテルリンクは、これによって象徴派と呼ばれている。そこでこれ等の象徴派につぎ、詩的精神の最も高調された文学は、人の知る如く浪漫派や人道派の文学である。実にゲーテや、ユーゴーや、ジューマや、トルストイや、ドストイエフスキイやの小説は、詩的精神の最も情熱的なものを感じさせる。なぜなら彼等のモチーフは、主として愛や人道やの、道徳的情操の上に立っているからである。前章に述べた通り、すべて倫理感の本質するところは、それ自ら詩的精神である故に、倫理的観念――恋愛を含めて――によって書かれたものは、必然に皆情緒を刺戟し、一種の抒情詩的な陶酔魅惑をあたえる。すべての倫理感的な文学は、それ自らみな詩的である。
 ところが此処に、こうした宗教感や道徳感を排斥し、すべてに於て「詩」を拒絶しようとする文学がある。即ち人の知る自然主義の文学である。実に自然派の文学は、芸術から詩を抹殺まっさつし、一切の主観的精神を否定しようと企てた。何よりも、彼等は冷静なる客観的の態度によって、真に「科学の如く」観察し、純のレアリズムに徹底しようと考えた。そこで「主観を排せ!」が標語の第一に叫ばれた。実に彼等は、芸術が科学的没主観の態度によって、創作されることを考えたのだ。そして一切の情緒と感情とを排斥した。特に就中なかんずく愛や人道やの倫理感を排斥した。それは自然主義の言語に於ける、センチメンタリズムという響の中に、無限の軽蔑けいべつを以て考えられた。
     第十一章 芸術に於ける詩の概観


 芸術以外のものに於ける、詩的精神の概観は既に述べた。次に吾人ごじんは、特に芸術について考えよう。芸術の世界に於て、どこに「詩的なもの」があるだろうか? だが、最初に言っておくのは、この質問が芸術自体の部門に属して、他との関係に属してないということである。もし他との関係で言うならば、芸術はすべて――どんな芸術でも――本質上に於ての詩に属している。なぜなら芸術の意義は美であるのに、美はそれ自ら「感情の意味」であって、純粋に主観上のものに属するから、しばしば或る芸術は、科学の如き客観を標語している。だがこの意味の「科学の如く」が、一種の修辞上の比喩ひゆであって、文字通りの正解でないことは解りきってる。芸術はどんなものでも、決して科学のように没情味・没主観のものではないのだ。
 ゆえに科学に比して言う時、芸術それ自体が「詩」の観念で称呼される。そして「詩人」と言う言葉の広い意味が、人生に対しては芸術家一般を指しているのである。けだし芸術は、人生に於ける最も主観的なものであり、最も「詩的なもの」の一つであるからだ。しかしながら言語は、常に関係に於てのみ意味を持ってる。吾人が此処ここに問おうとするのは、芸術と他との関係でなく、芸術それ自体の部門に於て、どこに比較上の詩があるか言うことである。
 考察を進めて行こう。どこに芸術中の詩があるだろうか。最初に解りきっているのは、詩という言語が本源している実の文学、即ち叙事詩や抒情詩じょじょうし等のものである。だがこの解りきったものを除外して、他の別の形式による表現から、詩的精神の高いものさがしてみよう。第一にず、何よりも音楽が考えられる。音楽はすべて――西洋の音楽でも日本の音楽でも――本質的に主観芸術の典型に属している。音楽ほどにも、感情の意味を強く訴え、詩を感じさせる表現はないであろう。この意味で音楽は、詩以上の詩、詩の中での詩と言うことができる。
 然るに人々は、しばしば音楽の中に於ける、或る特殊な音楽を指して「詩」と言ってる。たとえばショパンや、ベートーベンや、ドビッシーやは、常に一般から詩人音楽家と呼ばれている。そしてハイドンや、バッハや、ヘンデルやは、そう呼ばれていないのである。何故だろうか? けだし前に他の章で述べた如く、音楽の部門に於ても、それぞれまた主観派と客観派との対立があり、そしてショパン等は前者に属し、バッハ等は後者に属しているからだ。「詩」という言語は、常にあらゆる関係の比較に於て、主観的のものにのみ属するのである。(「音楽と美術」参照)
 しかしながら吾人は、言語の使用について注意しよう。詩という言語を拡大して、こんな風にまで広茫こうぼうとひろげて行ったら、遂に詩の外延は無限に達し、内容のない空無の中でノンセンスとして消滅せねばならないだろう。言語はすべて比較であり、他との関係に於てのみ意味をもつから、詩という言語が正しく言われる範囲に於て、他との関係を切ってしまおう。換言すれば我々は、他のより客観的なるものに対してより主観的なるものを指摘し、その狭い範囲でのみ、詩という言語を限定しよう。すくなくとも第一に、先ず科学を詩の範囲からい出してしまおう。次に或る種の哲学――デカルトやヘーゲル――を拒絶しよう。なぜならこれ等のものは、詩というべくあまりに乾燥無味であって、知性の意味が勝ちすぎているから。
 では学術のどの辺から、詩の範囲に入り得るだろうか。これについての限定は、一般に多数の定見が一致している。常識に準ずるのが無難であろう。その世間の定評では、プラトンや、ブルノーや、ニイチェや、ショーペンハウエルや、老子や、荘子や、ベルグソンやが、一般に詩人哲学者と呼ばれている。なぜなら彼等の思想は主観的で、他の学究のように純理的思弁をせず、意味が情趣のある気分によって語られているから、先ずこれ等の思想家は、定評のある如く詩人に属する。そして同時に、詩という言語の拡大され得る広い範囲も、この辺の思想や学術で切っておこう。これより先に延びて行くことは、詩という言語を空無の中に無くしてしまう。
 そこで吾人は、先ず詩の円周する外輪を描き得たわけだ。次にはこれを内に向って、円の中心点を求めてみよう。どこに詩の中心点があるだろうか? 考えるまでもない。この中心点こそ即ち文壇の所謂「詩」で、吾人の抒情詩や叙事詩を指すのだ。故に詩という言語を中心的に考えれば、真に詩というべきは吾人の所謂詩(叙事詩や抒情詩)であって、他のすべての文学や思想やは、単に詩に類似するもの、詩的なもの言うにすぎないのだ。次章はさらに進んで、文学及び芸術に現われた「詩的のもの」を考えよう。

「無道徳」と「反道徳」とを区別せよ。無道徳というのは、全然倫理的観念の外におり、善悪のいずれにも没交渉なものを言う。これに対して反道徳は、愛他主義と個人主義とに於ける如く、同じ一つの倫理線の上で、反対に向き合ってるものを言う。故に反道徳と道徳(通俗的道義観念)とは、同一線上で絶えず衝突するけれども、無道徳は別の並行線に属しており、全然倫理的問題とは没交渉で、どこにも交切する機縁がない。
* 浮世絵の哲学は或る頽廃たいはい的なる官能の世界に没落し、それと情死しようとするニヒリスティックなエロチシズムで、歌麿うたまろ春信はるのぶが最もよく代表している。

 最後に、詩的精神の最も遠い極地に於て、科学の没主観な太陽が輝やいている。明白に、だれも知っている如く、科学は主観的精神を排斥し、一切「感情の意味」を殺してしまう。故に科学にかかっては、道徳も宗教も型なしであり、知性の冷酷の眼で批判される。実に科学は、人生から「詩」を抹殺まっさつすることにのみ、その意地あしき本務を持ってるように思われる。しかもこの科学的精神が、宇宙の不思議に対する詩的驚異と、未知の超現実をさぐろうとする詩感に出発していることは、何という奇妙な矛盾だろう。けだし科学は、詩的精神の最も大胆な反語であって、その否定するところのものから、逆に他の「夢」を創ろうとするのである。故に科学のあるところには、常に飛行機があり、磁力があり、ラジオがあり、電信があり、不断の新しき発明と夢とがある。もし科学が無かったら、人生はいかに退屈にして変化がなく、夢のない単調のものになるであろう。そしてかく考えれば、科学こそは「詩の中の詩」であるとも逆説される。
 かく一般について観察すると、宗教も、道徳も、科学も、人生の価値に於けるあらゆるものが、本質に於て皆「詩」であり、詩的精神の所在として考えられる。実にこの本質上の意味に於て、詩は人生の「価値一般」であり、あらゆる文明が出発し、基調するところの実体である。すくなくとも詩的精神の基調なくして、人間生活の意義は感じられない。それは生活をして生活たらしめ、人間をして人間たらしめ、真や善や美やの高貴に心を向わせるところの、実のヒューマニチイ(人間良心)の本源である。しかり――、詩的精神の本質は実にヒューマニチイである
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