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したいほうだい    フログがただ静かに朔太郎を読むブログ                 
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 だが我々は、言語のあまりに抽象的な、あまりに論理的ロジカルな概念を敬遠しよう。なぜと言って実際に「詩を作らない詩人」という如き命題は、「脊椎せきついのない脊椎動物」というにひとしく、奇怪な言語上のトリックであり、事実としては無いところの、思弁上の抽象概念に属している。実に「詩」という言語は、芸術の表現にのみ言われるので、表現のない詩や、表現を持たない詩人などと言うものは、事実上に於てノンセンスである畢竟ひっきょうこうした言葉が言われるのは、詩の本質に於ける精神――詩的精神そのもの――を形体なき世界に於て無限に拡大したからである。芸術は肉体と霊魂と、表現と精神との結合である。故に吾人ごじんは、肉体なき霊魂を考え得ず、表現なき「詩の幽霊」を思惟しいし得ない。詩は表現があってのみ、始めて詩と言われるのである
 それ故に「詩人」という語も、また常に「表現者」を指すのである。単なる「生活者」は、決して真の意味の詩人でない。実に詩人と言う語の正しい定義は、単なる生活者でもなく、単なる芸術家でもなく、その両方を一所の中心に持つところの、或る特別の人間を指すのである。換言すれば、詩人とは「訴えようとする主観者」と、「表現しようとする客観者」とが、相互に程のよい調和に於て、固く結合した人格を指すのである。るにこの主観者と客観者とは、多くの場合に於て必ずしも一致しない。のみならず二つの天性はしばしば互に排斥し合い、矛盾し合いさえするのである。なんとなれば主観者は、それ自ら感情であり、はげしい爆発的の行為に出ようとするところの、デオニソス的激情性のものであるのに、客観者は智慧であって、表現の観照に向うところの、静かな明徹したアポロ的理性であるから。そしてデオニソスとアポロとは、容易に普通の人格では、同棲どうせいすることができないのである。
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 かく考えれば、詩人の定義は「生活者」であって、「芸術家」でないことが解ってくる。しかし詩人といえども、表現者である以上には、一方に於てまた勿論もちろん芸術家だ。故に詩人と芸術家とは、円の外周に於て切り合うところの、二つの中心を異にする言語である。換言すれば詩人は、表現者としてのみ、芸術家の範疇に属すべき人物だろう。だが待て! 果して真にそうだろうか。この定義にまちがいはないだろうか。もし実にそうだとすれば、真に純粋の詩人と言うべきものは、ヴェルレーヌや李白のような芸術家でなく、何等そんな表現を持たないところの、真のまじり気のない主観的生活者、即ち所謂「詩を作らない詩人」でなければならない。表現を持っている詩人は、一方に於て彼が芸術家であるだけ、それだけ詩人として不純である。既に前の章で述べた通り、あらゆる表現は観照であり、客観なしに有り得ない。詩もまた表現である以上は、客観なしに芸術し得ない。故に詩人の持っている主観は、真の純一の主観(感情そのもの)でなく、観照によって客観され、智慧ちえによって表現に照し出されたところの、特殊の知的主観であり、言わば「客観されたる主観」「表現されたる主観」である。そしてこうしたものは、勿論純粋の主観と言えないのだ。純粋の主観、真の雑り気のない、一本の主観を常に持ってるものは、こうした表現者の詩人でなくして、行為によって生活を創作しようとするところの、他の「詩を作らない詩人」である。
 されば真に純粋の意味で「詩人」と言うべきものは、一方に於て芸術家と切円している詩人でなくして、芸術とは全く円の分離している、他の主観的生活者――宗教家や、革命家や、冒険家や、旅行家や――の一群である。彼等の生活は行為である。そして行為には観照がなく表現がないゆえに、常に純粋の主観として一直線に徹底することができるのである。
 世界の代表的なる詩人について、この事実を調べてみよう。先ず日本で言えば、芭蕉ばしょうや、人麿ひとまろや、西行さいぎょうやが、そうであった。彼等は人生の求道者であり、生涯を通じてのロマンチックな旅行家だった。(日本の昔の詩人には、不思議に旅行家が多かった。彼等は自然について、心のイデヤする故郷を見ようとしたのだ。)外国に於て見れば、バイロンは正義に殉じた熱血児で、ハイネはプラトニックに恋愛を歌いつつ、革命に熱した人生の戦士であった。ゲーテ、シルレルは文字通りの哲学者で、かつ一種の宗教家でさえあった。ヴェルレーヌ、李白りはくに至っては典型的なる純情のニヒリストで、陶酔の刹那せつなに生をけ、思慕エロス高翔こうしょう感に殉死しようとするところの、まことの「詩情の中の詩情」を有する詩人であったキーツ、シェレー、マラルメの徒は、何れも象徴的なる実在主義者で、一種のアナアキズムの宗教家である。その他ボードレエルはカトリックの求道者で、同時に異端的な哲学者であり、ヴェルハーレン、ホイットマンは、一種の社会的志士であった。そして鬼才詩人ランボーは、わずかに三年間ほど文壇に居り、少数の立派な詩を書いた後で、直に彗星すいせいのように消えてしまった。なぜなら彼は、阿弗利加アフリカ沙漠さばくの中で、より詩的な生活を行為しようと思ったから。彼は言った。「詩なんか書くやつはくだらない」「真の詩人は詩を作らない」と。丁度我が石川啄木たくぼくが、自分で詩人であることを自嘲じちょうしつつ、生涯慰められないで詩を書いていた。
 されば「詩人」と言う言葉は、それ自ら「生活者」と言う意味に外ならない。彼等の実に尋ねているのは、芸術でなくして生活であり、真に心のかわきを充たすべき、イデヤの世界の実現である。あらゆるすべての詩人は、彼の歓楽の酒盃しゅはいの中に、もしくは理想的社会の実現される夢の中に、生活のクライマックスをして死のうとしている。それゆえに彼等は革命家であり、志士であり、デカダンであり、ニヒリストであり、旅行家であり、哲学者であるのだ。人生とは! 人生とは詩人にとって何でもない。ただ「詩が実現されることの夢」であり、それへの思慕エロスにすぎないのだ。されば詩人の真精神は、常に「生活すること」に存するので、芸術すること、表現することにあるのでない。表現は詩人にとって、常に悲しき慰めの祈祷きとうにすぎないのだ。
 かく考えれば、詩と芸術、詩人と芸術家とは、必ずしも同一異名の言語でなくして、どこかに或る質の違った、精神を別にするものがあるように思われる。すくなくとも「詩」の定義は、「芸術」の定義と同じでない。もしそうならば、宗教の経典や、或る種の哲学書のような、純粋の意味で芸術品と言えないものが、より純粋であるところの、真の芸術品たる美術や小説の類に比して、却って詩的であると言うことは不思議であり、認識上の混乱した矛盾になる。故に詩と芸術とはたしかに別々の言語に属し、厳重の意味に於て区別される。そこで次に起る問題は、詩人とは何ぞや 芸術家とは何ぞや? という、二つのはっきりした質問である。ず前の問から答えて行こう。
 詩人とは何だろうか? 言うまでもなく詩人とは詩的精神を高調している人物である。では詩的精神とは何だろうか? それについては前に述べた。即ち主観主義的なる、すべての精神を指すのである。故に「詩人」の定義は、一言にして言えば「主観主義者」である。詳しく言えば、詩人とはイデアリストで、生活の幻想を追い、不断に夢を持つところの人間夢想家ヒューマンドリーマア。常に感じやすく情熱的なる人間浪漫家ヒューマンロマンチストを指すのである。されば実の詩人は、常に空想的なる旅行家、冒険家、革命家、宗教家、哲学者等に見る範疇はんちゅうで、言語の純粋な意味に於ては、彼等こそ真の詩人と言うべきである。そして芸術家としての所謂いわゆる詩人も、この気質的なる本質では、常に彼等の人間夢想家ヒューマンドリーマアと一致している。例をあげてみよう。おおむねの所謂詩人はその通りで、ことごとく皆一種の求道者であり、旅行家であり、哲学者であり、革命家であり、実在的ニヒリストであり、そして要するに情熱的なる人間生活者である。
     第十三章 詩人と芸術家


 詩人は芸術家であるか? と言う質問は、ヴァイオリンは楽器であるかという質問に同じく、馬鹿馬鹿しくとぼけて聞える。だがこの質問は、いつでも我々詩人にとって、真面目まじめに、本気に、提出される疑問である。なぜなら我々は、実際に芸術家でないところの、多くの本質的な詩人を知っているからだ。彼等は芸術的な表現を持っていない。然も気質的には、どんな詩人にも劣らぬような、情熱の高いイデヤをもち、不断のロマンチックな夢にあこがれ、常に純一な主観を高調している。例えば耶蘇ヤソやマホメットのような宗教家、コロンブスやマルコ・ポーロのような旅行家、ソクラテスやブルノーのような情熱哲学者、孔子こうしや老子のような人間思想家、吉田松陰しょういんや雲井龍雄たつおのような志士革命家を指すのである
 彼等は実際に芸術家じゃない。否あるいは多少の芸術家であるかも知れない。だが一二の拙い詩を作ったソクラテス、記録的な旅行記を書いたマルコ・ポーロを、実の定評ある文学者に比較する時、前者が批判外に属するのは明らかだ。何人なんぴとも、いずれが芸術家であるかという質問に対して、躊躇ちゅうちょなく後者を答えるだろう。しかしながら質問の言葉を換えて、もし何れが詩人的な人物かと聞くならば、おそらく何人も、多少の困惑と躊躇なしに、答えることができないだろう。実際あの浪漫的な空想旅行家マルコ・ポーロやコロンブスが、職業的文士たる小説家等に比して、人物的に詩人でないということはだれも言えない。否その点で言うならば、むしろかえって彼等の方が、気質的の詩人であるか解らない。著述として見ても、宗教の経典や、プラトンの哲学や、老子の道徳経や、マルコ・ポーロの旅行記やの方が、写実主義的な美術や小説の類に比して、より多く詩的であり、詩という言語の本質感に接近している。
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