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 かく考えれば詩人と小説家との一致点は、人生観に於ける本質の「詩」だけであって、芸術家としての態度に於ては、全然素質のちがうことが解るであろう。小説の立場は、人生の真実をレアリスチックに見ようとするのであるから、すくなくとも観照上では、主観的なセンチメントを一切排斥せねばならぬ。この点で自然主義は、小説の正に小説すべき典型の規範を教えている。小説が小説たるためには、観照の形式上で、詩から遠く離れるほど好いのである。小説にして詩であるものは、一種の「なまぬるい文学」にすぎないだろう。しかも精神に於て見れば、真の小説には詩的精神の高調したものが無ければならない。つまり言えば、*科学が人生に於ての詩の逆説である如く、小説は文学に於ける詩の逆説である。かの自然主義の主張が、小説を「科学の如く」と言い、そして一切の詩的なものに挑戦した所以ゆえんがここにある。実に自然主義の文学論は、**逆説によって説かれた小説道の極意である。

* 「人生に於ける詩の概観」参照。
** 日本の文壇が、自然主義の逆説を理解し得ず、これによって本質上の詩を失い、救いがたい堕落に落ちたことを考えてみよ。(「特殊なる日本の文学」章尾の註参照)
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 けれどもこの関係から、小説家が詩人に比して、より知的な人物である如く考える人があるならば、驚くべき笑止な誤謬ごびゅうである。智慧ちえの優劣について言うならば、詩人はむしろ小説家にすぐれていても劣りはしない。なぜなら前に他の章(観照に於ける主観と客観)で述べたように、認識上に於ける主観と客観との相違は、智慧が感情に於て結合していると、感情から独立して有るとの相違にすぎず、その知性の働く実質には、なんの変りもないからである。ただ様式上の相違のために、詩は感情によって歌い出され、小説は客観によって描出される。しかもこの様式上の相違が、詩人と小説家とを区別するところの、根本の態度を決定する
 詩人は常に、世界を主観的に眺める為めに、認識が感情と結合しており、小説家の如くレアリスチックに、真の客観された存在を観照し得ない。反対に小説家は、何物に対しても客観的で、外部からの知的な観察を試みる。故にまた小説家は、詩人の住んでる「心情ハートとしての意味の」世界に這入はいり得ない。そこで結局、詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れないということになる。小説家の作った詩――彼等はよく俳句や歌を作る――は、概して観照に徹しており、修辞が凝り性に行き届いているにかかわらず、どこか或る根本のところで、詩の生命的要素を持たず、音の無い釣鐘つりがねという感がする。けだし彼等は、詩を「心情ハート」で作らないで、知的な「頭脳ヘッド」で作るからだ。反対にまた詩人の書いた小説は、観照が主観のもやでかすんでいるため、どこか感じがなまぬるく、真の小説的現実感に徹しない。
     第十四章 詩と小説


 吾人ごじんが文学と称するものの中には、詩、*評論(章尾の註参照)、随筆、エッセイ、戯曲、小説等の種類がある。しかしこれ等の中、文学の両極を代表する形式は、詩と小説との二つであり、他はその中間的のものにすぎない。実に詩と小説とは、文学における南極と北極、即ち主観主義と客観主義との両極を、判然として対照している。吾人は特に、この関係について述べねばならない。
 前に他の章(芸術に於ける詩の概観)で説いたように、おおむねの小説は、本質に於て主観的な詩的精神に情操している。ゆえにこの限りで見るならば、小説もまた詩と同じく、広義に主観的な芸術と言わねばならない。けれどもこの場合の主観性は、創作の背後に於ける態度であって、事実に面した観照の態度ではない。観照の態度としては、ほとんど小説の約束された形において、すべての作品がことごとく皆客観的である。実に小説の小説たる所以ゆえんのものは、この観照に於ける客観性と言うことに存するのだ。(もし小説が客観的でなかったら、それは詩――散文詩――になってしまう。)
 詩と小説とはこの点に於て実に判然たる区別を持っている。詩は本質上に主観的の文学であり、単に態度の上のみでなく、観照それ自体が主観的である。即ち詩にあっては、対象が対象として観察されず、主観の気分や情緒によって、感情としてながめられる。反対に小説では、これが主観から切り離され、純に知的な眼で観察される。故に同じ恋愛等を題材としても、詩ではこれが感情によって歌い出され、小説では事件や心理の経過として、外部の観察によって描出される。故にまたこの点から、一般に詩は「感情のもの」と言われ、小説は「知的のもの」と考えられている。
 故に詩人の資格たるべき方程式は、
[#ここから横組み]主観者(生活者)+客観者(芸術家)=詩人[#ここで横組み終わり]
 で無ければならず、かつその主と客との数値はできるだけ同等でなければならない。古来すべての偉大な詩人は、この調和に於て完全であり、かつ二つの数値を、共に多量に有していた。(それの数値が大であればあるほど、二者の加算たる和が大きくなる。)例えば*芭蕉や、ゲーテや、ニイチェや、ランボー、李太白りたいはくやが、ことごとく皆そうであった。彼等は一方で熱烈なる生活者であり、人生の夢を追って一貫した詩人でありながら、一方には常に純粋な芸術家で、表現に苦心し、観照に徹しようとした真の芸術家であったのだ。実にもしそうでなかったら、いかなる価値ある作品も、彼等によって残されずにしまったろう。されば要するに詩人とは、生活者と芸術家との混血児で、しかも両者の血を多量に受けた、矛盾の中の美しい調和である。

* 芭蕉は10の生活者と10の芸術家との、完全に調和した詩人である。然るに彼の亜流者等は、師から芸術至上主義の一面を見、単にその点のみを学んだ為、蕉門俳句をして後世の悪風流に堕落させた
 行為の詩人と表現の詩人とが、実に此処ここから別れてくる。前者、即ち「詩を作らない詩人」たちは、純粋に主観的、感情的であるけれども、これを観照する客観性の智慧がない。故に彼等は、直ちにデオニソス的に爆発し、行動としての詩に走って行く。然るに芸術家の詩人にあっては、智慧がいつも背後におり、デリケートなるアポロ的静観者が見ている為、観念が行動の方に爆発しないで、表現の認識の方に移って行く。――人は無智であるほど勇敢であり、智慧があるほど臆病おくびょうである。――そしてこの分岐点から、実にドン・キホーテとハムレットが出来るのである。言うまでもなく芸術家は、すべてハムレットに属している。芸術家はだれでも、決してドン・キホーテたり得ない、運命の決定された素質を持っている。或は多少、それに近いものがあったにしても、所詮しょせんアポロ的デオニソスであり、ハムレット型ドン・キホーテたるにすぎない。即ち彼の大胆な行為の影で、智慧の臆病が眼をつぶっている。(セクスピア)
 故に真に「天分ある詩人」とは、この主観者と客観者、生活者と芸術家とが、一の人格に於て完全に結合され、10に対する10の比例で、平衡を得たものでなければならない。もし一方の者が他にまされば、彼は所謂「詩を作らない詩人」となり、もしくは逆に、芸術的才能のみあって詩的精神の欠乏している霊魂なき「詩を持たない詩人」になる。こうした不幸の例について、吾人は実に多くのものを見聞している。たとえば我が王朝の歌人在原業平ありわらのなりひらは、日本無比な情熱的な恋愛詩人で、かつ藤原氏の専横に鬱憤うっぷんしつつ、常に燃ゆる反感をいだいていた志士であり、あたかも独逸ドイツの詩人ハイネに比すべき人であったが、彼の和歌はそれ程でなく、人麿や西行に比し、二流であることを免かれない。即ち定評されている如く、こころあまって言葉足らずで、表現の才能が、主観の六分しか尽していないのである。さらに彼の兄行平ゆきひらに至っては、一層詩人的な情熱家であったにかかわらず、詩人としてはほとんど無能で、ようやく末流の才能しか持ってなかった。そして彼等の反対のもの、即ち表現の才能が有りあまって、しかも詩的霊魂の欠ける詩人は、引例のはんまでもなく、吾人の周囲到るところに発見できる。
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