第十三章 詩人と芸術家
詩人は芸術家であるか? と言う質問は、ヴァイオリンは楽器であるかという質問に同じく、馬鹿馬鹿しく
とぼけて聞える。だがこの質問は、いつでも我々詩人にとって、
真面目に、本気に、提出される疑問である。なぜなら我々は、
実際に芸術家でないところの、多くの本質的な詩人を知っているからだ。彼等は芸術的な
表現を持っていない。然も気質的には、どんな詩人にも劣らぬような、情熱の高いイデヤをもち、不断のロマンチックな夢にあこがれ、常に純一な主観を高調している。例えば
耶蘇やマホメットのような宗教家、コロンブスやマルコ・ポーロのような旅行家、ソクラテスやブルノーのような情熱哲学者、孔子や老子のような人間思想家、吉田松陰や雲井龍雄のような志士革命家を指すのである。
彼等は実際に芸術家じゃない。否
或は多少の芸術家であるかも知れない。だが一二の拙い詩を作ったソクラテス、記録的な旅行記を書いたマルコ・ポーロを、実の定評ある文学者に比較する時、前者が批判外に属するのは明らかだ。
何人も、
何れが芸術家であるかという質問に対して、
躊躇なく後者を答えるだろう。しかしながら質問の言葉を換えて、もし何れが詩人的な人物かと聞くならば、おそらく何人も、多少の困惑と躊躇なしに、答えることができないだろう。
実際あの浪漫的な空想旅行家マルコ・ポーロやコロンブスが、職業的文士たる小説家等に比して、人物的に詩人でないということはだれも言えない。否その点で言うならば、むしろ
却って彼等の方が、
気質的の詩人であるか解らない。著述として見ても、
宗教の経典や、プラトンの哲学や、老子の道徳経や、マルコ・ポーロの旅行記やの方が、写実主義的な美術や小説の類に比して、より多く詩的であり、詩という言語の本質感に接近している。
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