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 世界の代表的なる詩人について、この事実を調べてみよう。先ず日本で言えば、芭蕉ばしょうや、人麿ひとまろや、西行さいぎょうやが、そうであった。彼等は人生の求道者であり、生涯を通じてのロマンチックな旅行家だった。(日本の昔の詩人には、不思議に旅行家が多かった。彼等は自然について、心のイデヤする故郷を見ようとしたのだ。)外国に於て見れば、バイロンは正義に殉じた熱血児で、ハイネはプラトニックに恋愛を歌いつつ、革命に熱した人生の戦士であった。ゲーテ、シルレルは文字通りの哲学者で、かつ一種の宗教家でさえあった。ヴェルレーヌ、李白りはくに至っては典型的なる純情のニヒリストで、陶酔の刹那せつなに生をけ、思慕エロス高翔こうしょう感に殉死しようとするところの、まことの「詩情の中の詩情」を有する詩人であったキーツ、シェレー、マラルメの徒は、何れも象徴的なる実在主義者で、一種のアナアキズムの宗教家である。その他ボードレエルはカトリックの求道者で、同時に異端的な哲学者であり、ヴェルハーレン、ホイットマンは、一種の社会的志士であった。そして鬼才詩人ランボーは、わずかに三年間ほど文壇に居り、少数の立派な詩を書いた後で、直に彗星すいせいのように消えてしまった。なぜなら彼は、阿弗利加アフリカ沙漠さばくの中で、より詩的な生活を行為しようと思ったから。彼は言った。「詩なんか書くやつはくだらない」「真の詩人は詩を作らない」と。丁度我が石川啄木たくぼくが、自分で詩人であることを自嘲じちょうしつつ、生涯慰められないで詩を書いていた。
 されば「詩人」と言う言葉は、それ自ら「生活者」と言う意味に外ならない。彼等の実に尋ねているのは、芸術でなくして生活であり、真に心のかわきを充たすべき、イデヤの世界の実現である。あらゆるすべての詩人は、彼の歓楽の酒盃しゅはいの中に、もしくは理想的社会の実現される夢の中に、生活のクライマックスをして死のうとしている。それゆえに彼等は革命家であり、志士であり、デカダンであり、ニヒリストであり、旅行家であり、哲学者であるのだ。人生とは! 人生とは詩人にとって何でもない。ただ「詩が実現されることの夢」であり、それへの思慕エロスにすぎないのだ。されば詩人の真精神は、常に「生活すること」に存するので、芸術すること、表現することにあるのでない。表現は詩人にとって、常に悲しき慰めの祈祷きとうにすぎないのだ。
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