しかしながら吾人は、言語の使用について注意しよう。詩という言語を拡大して、こんな風にまで
広茫とひろげて行ったら、遂に詩の外延は無限に達し、内容のない空無の中でノンセンスとして消滅せねばならないだろう。
言語はすべて比較であり、他との関係に於てのみ意味をもつから、詩という言語が正しく言われる範囲に於て、他との関係を切ってしまおう。換言すれば我々は、
他のより客観的なるものに対してより主観的なるものを指摘し、その狭い範囲でのみ、詩という言語を限定しよう。すくなくとも第一に、先ず
科学を詩の範囲から逐い出してしまおう。次に或る種の哲学――デカルトやヘーゲル――を拒絶しよう。なぜならこれ等のものは、詩というべくあまりに乾燥無味であって、知性の意味が勝ちすぎているから。
では学術のどの辺から、詩の範囲に入り得るだろうか。これについての限定は、一般に
多数の定見が一致している。常識に準ずるのが無難であろう。その世間の定評では
、プラトンや、ブルノーや、ニイチェや、ショーペンハウエルや、老子や、荘子や、ベルグソンやが、一般に詩人哲学者と呼ばれている。なぜなら彼等の思想は主観的で、他の学究のように純理的思弁をせず、
意味が情趣のある気分によって語られているから、先ずこれ等の思想家は、定評のある如く詩人に属する。そして同時に
、詩という言語の拡大され得る広い範囲も、この辺の思想や学術で切っておこう。これより先に延びて行くことは、詩という言語を空無の中に無くしてしまう。
そこで吾人は、先ず詩の
円周する外輪を描き得たわけだ。次にはこれを内に向って、円の中心点を求めてみよう。どこに詩の
中心点があるだろうか? 考えるまでもない。
この中心点こそ即ち
文壇の所謂「詩」で、吾人の
抒情詩や叙事詩を指すのだ。故に詩という言語を中心的に考えれば、真に詩というべきは吾人の所謂詩(叙事詩や抒情詩)であって、
他のすべての文学や思想やは、単に詩に類似するもの、詩的なものと言うにすぎないのだ。次章はさらに進んで、
文学及び芸術に現われた「詩的のもの」を考えよう。
「無道徳」と「反道徳」とを区別せよ。無道徳というのは、全然倫理的観念の外におり、善悪の何れにも没交渉なものを言う。これに対して反道徳は、愛他主義と個人主義とに於ける如く、同じ一つの倫理線の上で、反対に向き合ってるものを言う。故に反道徳と道徳(通俗的道義観念)とは、同一線上で絶えず衝突するけれども、無道徳は別の並行線に属しており、全然倫理的問題とは没交渉で、どこにも交切する機縁がない。
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