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 しかし吾人は、この章に於て特に文学のことを考えよう。なぜなら詩の形式は、本来文学に属しており、小説や戯曲と密接な関係を有するから。さて文学――詩以外の文学――に於て、どこに詩的な表現があるだろうか。
 第一に考えられるのは、ポオの小説や、メーテルリンクの戯曲やである。一般に言われる如く、これ等は「散文学としての詩」であって、小説や戯曲の形に於ける、詩的精神の最も高いものを表現している。吾人はポオの『アッシュル館の没落』や、メーテルリンクの『タンタージルの死』を読む時に、小説や戯曲を読むというよりは、むしろ全くの純粋の詩を読んでいるような感がする。すくなくともこれ等の文の本質は、詩の持っている第一義感の精神と共通している。そして詩に於ける第一義感の精神が、宇宙の実在性に触れようとするメタフィジックの宗教感であること――それ故に宗教が詩的精神の最高部であること――は、前章に於て既に説いた。(前章参照)
 かく宗教観に情操するものを、芸術上で普通に「象徴」と言ってる。この象徴に関する別の解義は、後に他の章で詳説するが、とにかくポオやメーテルリンクは、これによって象徴派と呼ばれている。そこでこれ等の象徴派につぎ、詩的精神の最も高調された文学は、人の知る如く浪漫派や人道派の文学である。実にゲーテや、ユーゴーや、ジューマや、トルストイや、ドストイエフスキイやの小説は、詩的精神の最も情熱的なものを感じさせる。なぜなら彼等のモチーフは、主として愛や人道やの、道徳的情操の上に立っているからである。前章に述べた通り、すべて倫理感の本質するところは、それ自ら詩的精神である故に、倫理的観念――恋愛を含めて――によって書かれたものは、必然に皆情緒を刺戟し、一種の抒情詩的な陶酔魅惑をあたえる。すべての倫理感的な文学は、それ自らみな詩的である。
 ところが此処に、こうした宗教感や道徳感を排斥し、すべてに於て「詩」を拒絶しようとする文学がある。即ち人の知る自然主義の文学である。実に自然派の文学は、芸術から詩を抹殺まっさつし、一切の主観的精神を否定しようと企てた。何よりも、彼等は冷静なる客観的の態度によって、真に「科学の如く」観察し、純のレアリズムに徹底しようと考えた。そこで「主観を排せ!」が標語の第一に叫ばれた。実に彼等は、芸術が科学的没主観の態度によって、創作されることを考えたのだ。そして一切の情緒と感情とを排斥した。特に就中なかんずく愛や人道やの倫理感を排斥した。それは自然主義の言語に於ける、センチメンタリズムという響の中に、無限の軽蔑けいべつを以て考えられた。
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