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     第十一章 芸術に於ける詩の概観


 芸術以外のものに於ける、詩的精神の概観は既に述べた。次に吾人ごじんは、特に芸術について考えよう。芸術の世界に於て、どこに「詩的なもの」があるだろうか? だが、最初に言っておくのは、この質問が芸術自体の部門に属して、他との関係に属してないということである。もし他との関係で言うならば、芸術はすべて――どんな芸術でも――本質上に於ての詩に属している。なぜなら芸術の意義は美であるのに、美はそれ自ら「感情の意味」であって、純粋に主観上のものに属するから、しばしば或る芸術は、科学の如き客観を標語している。だがこの意味の「科学の如く」が、一種の修辞上の比喩ひゆであって、文字通りの正解でないことは解りきってる。芸術はどんなものでも、決して科学のように没情味・没主観のものではないのだ。
 ゆえに科学に比して言う時、芸術それ自体が「詩」の観念で称呼される。そして「詩人」と言う言葉の広い意味が、人生に対しては芸術家一般を指しているのである。けだし芸術は、人生に於ける最も主観的なものであり、最も「詩的なもの」の一つであるからだ。しかしながら言語は、常に関係に於てのみ意味を持ってる。吾人が此処ここに問おうとするのは、芸術と他との関係でなく、芸術それ自体の部門に於て、どこに比較上の詩があるか言うことである。
 考察を進めて行こう。どこに芸術中の詩があるだろうか。最初に解りきっているのは、詩という言語が本源している実の文学、即ち叙事詩や抒情詩じょじょうし等のものである。だがこの解りきったものを除外して、他の別の形式による表現から、詩的精神の高いものさがしてみよう。第一にず、何よりも音楽が考えられる。音楽はすべて――西洋の音楽でも日本の音楽でも――本質的に主観芸術の典型に属している。音楽ほどにも、感情の意味を強く訴え、詩を感じさせる表現はないであろう。この意味で音楽は、詩以上の詩、詩の中での詩と言うことができる。
 然るに人々は、しばしば音楽の中に於ける、或る特殊な音楽を指して「詩」と言ってる。たとえばショパンや、ベートーベンや、ドビッシーやは、常に一般から詩人音楽家と呼ばれている。そしてハイドンや、バッハや、ヘンデルやは、そう呼ばれていないのである。何故だろうか? けだし前に他の章で述べた如く、音楽の部門に於ても、それぞれまた主観派と客観派との対立があり、そしてショパン等は前者に属し、バッハ等は後者に属しているからだ。「詩」という言語は、常にあらゆる関係の比較に於て、主観的のものにのみ属するのである。(「音楽と美術」参照)
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