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 文壇で言われる「生活のための芸術」「芸術のための芸術」の正しい本質は、実に前述した如くである。即ちそれは「イデヤのための芸術」「観照のための芸術」の別語であって、つまり言えば主観主義と客観主義浪漫主義と現実主義との、人生観的見地からくる芸術の見方にすぎない。主観的ロマンチシズムの人生観に立ってる人は、必然に「生活のための芸術」を考えるし、客観的レアリズムの立場にいる人たちは、必然に「芸術のための芸術」を思うであろう。しかし注意すべきことは、こうした見解が態度上のものであって、芸術作品としての批判上には、何等関係しないということである。
 この事実を説明するため、別の一例を取って話してみよう。例えば学問をする人には、種々異った態度がある。或る多くの人々は、立身出世のために学問をし、他の或る篤志な人々は、社会民衆の利福のために、学術を役立てようと思って学問する。あるいはまた一方には、学問によって生活上の懐疑をき、安心立命あんしんりつめいを得ようとする人々もあるであろう。そして最後には、何等他の目的のためでなく、純に学問することの興味によって、即ち「学問のための学問」をする人たちがある。
 かく学問する人の態度には、種々の異った種類があるけれども、学術が学術として批判される限りに於ては、純に真理としての学術価値を問うのであって、他の功利価値や実用価値に関していない。例えば電信や蒸気船やは、発明の目的が社会の福祉にあったにせよ、或は純に科学的の興味にあったにせよ、発見としての価値に変りがなく、またその学術上の批判に於ては、利用の有益と無益とを問わないのである。
 芸術がまたこれと同じで、主観に於ける作家の態度は、価値批判の上に関係しないゆえにもし諸君が意志するならば、芸術は売文のためであってもよく、ミツワ石鹸せっけんの広告のためであってもよく、或は共産主義の宣伝のためでもよく、社会風規の匡正きょうせいや国利民福のためでも好い。ただしかしこれを批判する上からは、そうした個々の解説と立場につかず、表現自体としての芸術的価値を見るのである。もしそうでなく、芸術の批判を個々の主観的立場でいたら、一も批準のよるところがないだろう。なぜならば或る者は宣伝の効果を主張し、或る者は商品販売の効果を重視し、或る者は教育上の効果を言い立て、各々の価値の批準がてんでにちがってくるから。
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