しかし過去の日本文壇では、この「*生活」という語が狭義に解され、主として衣食のための実生活、もしくは
起臥茶飯の日常生活を意味していた。それで所謂「生活を描く」という意味は、米塩のための所帯暮しや、日常茶飯の身辺記事やを題材とするという意味であって、これが即ち所謂「生活派」の文芸だった。だが「生活のための芸術」ということは、本質に於てそうした文芸とちがっている。もしその種の文芸が、実に「生活のため」と言われるのだったら、この場合の「ため」は何を意味するのか。それが for の意味、即ち生活に向って、生活の目標のためでないことは明らかだ。なぜなら茶を飲んだり、無駄話をしたりする日常生活や、
或は単に米塩のために働らいてる生活、即ち単に「生きる」ための実生活やに、何のイデヤも目標もないことは、初めから解りきってる話だから。ではこの「ため」は、「利用する」「役立てる」という意味になるのだろうか。過去の自然主義の文芸では、多分にそう解したらしい。だがそうとすれば、一層以て不可解であり、奇怪千万な
謎語である。なぜなら
細民窟の
じめじめした長屋住いや、
おつけ臭い所帯話やを書いた文学が、実生活のための利益になるということは、いかにしても考え得ないから。
読者にして常識あらば、今日の文壇でかかる啓蒙は無用であろう。文芸は、単に「生活を描く」ことによって「生活のため」と呼ばれるのでなく、
生活に理念を有し、イデヤに向っての意欲を掲げることによって、特に「生活のための芸術」と呼ばれるのである。
況んや生活の語を狭義に解して、日常茶飯の身辺的記録の類を、没主観の平面描写によって書く文学が、何等「生活のための芸術」でないことは明らかだ。否、日本の文壇常識で言われる生活主義の芸術とは、一種の茶人的身辺小説のことであって、真の「生活のための芸術」とは、全然立場を反対にする文学である。
真の意味で「生活のための芸術」と言われるものは、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。
故に例えば、
ゲーテや、芭蕉や、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの
異端的快楽主義に惑溺したワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、
極めて
詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の
誤謬について、ついでに
此処で一言しておこう。
元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける
人間主義者によって、初めて、標語されたものであって、当時の
基督教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち
人間主義者等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきことを説いたのである。故に当時の意味に於ては、正統なる芸術批判の主張であって、
もとより「生活のための芸術」に対する別の主張ではなかったのだ。
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