されば芸術の批判にあっては、作家の態度の
如何を問わず、単に表現された作物から、芸術としての純粋価値――芸術としての芸術価値――を問うのである。
今日赤色露西亜の過激派政府は、盛んにボリシェヴィキーの宣伝芸術を出してるけれども、吾人のこれに対する批判は、宣伝効果の有無を問うのでなく、ひとえに芸術としての価値に於ける、魅力の有無を問うのである。所謂教育映画や、伝染病予防の宣伝ポスター等に対する批判の規準点が、皆これに同じである。これらの場合に弁明して、
単なる芸術として書いたのでなく、社会意識の大義によって書いたから、そのつもりで高く――やはり芸術として――買ってくれと言う如き、前後矛盾した虫の好い要求は、到底受けつけられないのである。
「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とが、この点の批判でやはり同様である。作家自身の態度としては、芸術が慰安的な「悲しき
玩具」であろうとも、或は
生命がけな「真剣な仕事」であろうとも、
批判する側には関係がなく、何れにせよ表現の魅力を有し、作品として感動させてくれるものが好いので、芸術の批判は芸術に於てのみなされるのだ。換言すれば芸術は――どんな態度の芸術であっても――芸術それ自体の立場から、芸術を芸術の目的で批判される。
では芸術が芸術として、芸術の目的から批判されるというのは、どういうことを意味するだろうか。言いかえれば
芸術批判の規準点は、いったいどこにあるのだろうか。これに対する答は、一般に誰も知ってる通りである。
即ち芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される。そして
此処には、もちろんいかなる例外をも許容しない。いやしくも芸術品である以上には、
悉く皆美の価値によって批判される。芸術の評価はこれ以外になく、またこれを拒むこともできないのである。
しかしながら
美の種目には、大いにその特色を異にするところの、二つの著るしい対照がある。即ちその一つは
純粋に芸術的な純美であって、他の一
つはより人間的な生活感に触れるところの、或る別の種類の美である。そこで
「芸術のための芸術」が求めるものは、主としてこの前の方の美に属する。故に彼等は、純美としての明徹した
智慧を
悦び、
描写と観照の行き届いた、表現の芸術的に洗煉された、そしてどこか冷たい非人間的の感じがする、或るクリーアに澄んだ美を求める。これに反して一方の人々は、そうした非人間的の美を悦ばない。彼等の芸術に求めるものは、もっと
人間性の情線に触れ、宗教感や倫理感やを高調し、生活感情に深くひびいてくるところの、より意欲的で温感のある美なのである。
すべての所謂
「生活のための芸術」は、この後者に属する美を求める。故に彼等はこの点から、芸術至上主義の審美学に反対して、
よりダイナミックの芸術論を主張する。今日我が文壇で言われるプロレタリヤ文学の如きも、この後者に属する一派であって、彼等が要求している芸術は、実にこの種の美なのである。されば彼等は、表面上に「宣伝としての芸術」を説いていながら、
内実にはやはりその作品が、芸術としての批判で評価されることを欲しており、
態度が甚だしく曖昧で不徹底を極めている。けだしこの一派の迷妄は、その芸術上に於て正しく求めようとする美の意識と、政治運動としてのイデオロギイとを、無差別に錯覚している無智に存する。PR