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実に西洋の文学は――すくなくとも西洋の文学――は、著るしく本質に於て主観的で、宗教感や倫理感の詩的精神を高調している。むしろ吾人の困難は、彼等の中から「詩的のもの」を発見することでなくして、れに「詩的でないもの」を発見することにかかっている。けだし西洋の文学史は、古代の叙事詩や劇詩に始まり、小説等の散文学は、すべてこの希臘ギリシャ詩の精神から、後に発展したものであるからだ。「詩」という一つの観念は、古代より近代に至るまで、西洋のあらゆる文学史を一貫し、小説も戯曲もエッセイも、すべてがこの母音の上に詩神を立脚している。実に「詩」は西洋文学の基調であって、それなしにはどんな散文学もないのである。然るに我が日本に於ては、この事情が大いに異っている。日本の文学と文壇とは、歴史的にも事実的にも、西洋と発展の経路を別にし、かつ内容が著るしく異っている。だが日本の文学については、別に章を改めて後に説こう。
 さて吾人は、既に芸術に於ける二つのもの、即ち音楽と文学とについて観察した。そしてこのいずれもが、共にその芸術を詩的精神に置いていること、共に芸術中での「詩的なもの」であることを認識した。ではそもそも、芸術に於ける「詩的でないもの」はどこにあるのか。もちろん前にも言ったように、芸術の本質が美である以上、広義に、詩的でない芸術は考えられない。けれども比較に於ける関係からは、詩の主観的精神と対蹠たいしょさるべき、純の客観芸術が考え得られる。すくなくとも芸術としての範囲に於て、自然主義の主張を文字通りに徹底させたようなもの、即ち一切の人間的温熱感を超越し、純に冷静なる知的の態度で客観された、真の徹底したる観照本位の芸術が有り得るだろう。
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