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 されば自然主義の出発点は、始めから人間主義者ヒューマニスト的な逆説感に立っていたので、つまり言えば「道徳に反対する道義主義」であったのだ。此処で読者は、前章に述べたことを再考されたい。前章に於て、自分は倫理的情操に於ける二種のものを説明した。即ち「愛」をモチーフとする道徳感と、「義」をモチーフとする道徳感で、前者は女性的に涙もろく、後者は男性的に反撥はんぱつすることを特色し、しかも両者は一つの倫理線で相対している。自然主義の倫理感は、もちろん言うまでもなく、この後のものに根拠している。彼等の意志は、浪漫派の感傷道徳に反対して、他の懐疑的な見地に於ける、別の正義感を叫んでいたのだ。それは「没道徳」の態度でなくして、正しく「反道徳」の態度であった。(前章、章尾の註を参照せよ)
 こうした自然派の文学が、本質上に於て主観主義に属することは言うまでもない。それは情熱の高い、ドグマを主張する、詩的精神に充たされた文学であった。全然彼等の作物は、根本的にその主張と矛盾していた。否、彼等自身の文学論が始めから既に認識上で矛盾していた。元来芸術上の客観主義は、本質に於て観照本位の文学である故に、レアリズムの立場は必然に「芸術のための芸術」であるべきはずだ。(「生活のための芸術・芸術のための芸術」参照。)然るに自然主義は、一方で科学的没主観のレアリズムを主張しながら、しかも一方に於て「生活のための芸術」を主張していた。こうした自覚上の矛盾が、上述の如き結果になって現われたのが、即ち所謂いわゆる自然派の文学である。(この自然派の矛盾が、日本に於ていかに訂正されたかを後に述べる。)
 要するに自然派の文学は、「主観を否定する主観主義の文学」であり、「道徳に反対する倫理主義の文学」であり、そして実に「逆説されたる詩的精神の文学」であった。もし「科学の如く」という意味が、非人間的没情熱や、冷静無私の没主観を意味するならば、自然派文学は正にその正反対のものであった。むしろ彼等の文学は、あまりに人間的情慾に充ちたところの、あまりに主観的なる「生活のための芸術」でありすぎた。彼等の中での、最も徹底した芸術至上主義者――したがって最も徹底した自然主義者――であったフローベルさえ、常に「余は平凡を最も憎む、故にあえて平凡を書く。」と言ったと言われる。以ていかに自然主義が本質的な逆説文学であったかが解るだろう。しかり。自然派文学の本体は一語に尽く。逆説された詩的文学。――である。
 かく考えてくれば、浪漫派も、人道派も、自然派も、大概の文学は皆詩的であり、実に詩的精神を持たない文学というものは、事実上に於て無いように思われる。試みに吾人の知ってる、多くの知名な文学者の名をあげてみよう。ゴーリキイ、アンドレーフ、ストリンドベルヒ、チエホフ、バルザック、アルチバセーフ、イプセン、トルストイ、ロマン・ローラン、ハウプトマン、ツルゲネフ、ゾラ、ビョルンソン、メーテルリンク、ダヌンチオ、メレジコフスキイ等、いくら並べてみても同じであるが、結局彼等の中から、詩人的でない作家を一人も発見することができないほどだ。また文学の流派について考えても、浪漫派、人生派、人道派、自然派、象徴派等の全部にわたり、本質的に詩的でないものは一もない。その客観主義を標号し、レアリズムを説くものさえ、実には主観的なる「生活のための芸術」で、真の純粋な観照主義の文学でないことは、すべて自然派に於て見る通りである。
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