さればかかる文壇から、詩が常に虐遇されることは当然である。文壇がむしろ真にレアリズムに徹底して、痛烈なる芸術至上主義に立つならば、すくなくとも日本の詩人は、今少しよき境遇に有り得るだろう。なぜなら芸術の南極と北極とは、その極端のゆえにかえって相通ずるからだ。――
芥川龍之介を見よ。彼は文壇に於ける唯一の詩の理解者だった。――自然派以来の我が文壇と文学とは、その芸術的ヒューマニチイを失っていることによって、全然まったく、詩的精神と交渉がないのである。
* 日本人には宗教感や倫埋感がないから、したがって真のデカダンやダダイストも無いのである。デカダンやダダイストは、宗教感の線外にいる人物ではなく、同じ一つの線の上で、それと向き合っている反動家である。故に彼等について、その一端を叩けば他の反対が上ってくる。著者の知ってる限り、日本に真のデカダンは一人しかない。生活者の辻潤である。
** 日本の文学者は、詩的精神の喪失を以て老成の証左と考えている。これが西洋流の啓蒙観なら好いけれども――それだったら別の詩的精神が、他の一端で高調されている筈である。――日本のはそうでなく、根本的に詩そのもの、ヒューマニチイそのものを紛失させて、俗物的に納ったり、野狐禅的に悟り顔をすることで、自ら得意としているのだからたまらない、畢竟彼等は、自然主義の精神を履きちがえているのである。世に逆説の精神を知らずして、逆説を学ぶほど危険はない。この意味から日本の文壇は、自然主義によって堕落させられたと言い得るだろう。
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