そこで今言う如く、
西洋の多くの芸術家は、概して前の方のヒューマニチイ、即ち詩的精神を多量にもち、これによって作品を生命づけてる。反対に
日本の芸術家等は、昔から多く後者に属し、芸術至上主義的な名人意識で、観照の妙境に到達している。吾人はこの二つのものに於て、価値の批判を試み得ない。なぜならどっちも同等に偉いのだから――。ただしかし、
だれにも明白に解ることは、そのどっちも真に持たない人間は、芸術家としてのヒューマニチイがないのであって、どんな批判の立場に於ても、軽蔑にしか価しないと言うことである。
ところが痛快なことには、日本の現在する文学者等は、そのどっちも真に持っていないのだ。もちろん
或は、多少の生ぬるい程度に於て、両方共に持っているかも知れない。だが真に強く掲げられたヒューマニチイは、
殆ど少数の人にしか、実際見ることができないのだ。例えば、
詩人的な作家として、僅かに島崎藤村、谷崎潤一郎、武者小路実篤、佐藤春夫、室生犀星位であり、そして真の芸術至上主義者として、自殺した芥川龍之介、志賀直哉等を数えるにすぎないだろう。
概ね現代の文学者は、詩人でもなく美術家でもない、中途半端で
雑駁なデモ文士にすぎないのである。
こうした雑駁な文学者に比べるとき、昔の名人意識で一貫した日本の芸術家が、いかにすぐれて偉かったかと言うことを痛感する。現代日本の堕落は、生じっか西洋の主観的な生活主義が輸入されて、しかもこれを本質的に理解し得ず、皮相な概念でまごついている時、一方に自家の芸術良心を
相殺して、結局西洋流の生活文学にもならず、日本流の名人芸術にもならないところの、
似而非の曖昧文学で終ってしまっているところにある。我が国現代の文壇は、実にこうした
蒙昧期にある。
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