西洋の文明は、芸術と、宗教と、哲学と、科学との文明である。然るに日本には、哲学も、科学も、宗教もなく、
ただ一つの芸術のみが発達している。なぜなら
哲学や科学やは、始めから宗教への懐疑であり主観の詩的精神を逆説したものである故に、一方に反動さるべき主体がなければ、それの懐疑も起りはしない。第一そうした懐疑をもつべく、日本人はあまりに楽天的現実家でありすぎる。故に日本には、昔から少しも抽象観念が発達しない。即ち神道の
所謂「言論せぬ国風」で、一切思想というものが成育しない。実に
驚くべきことは、古代の純粋の日本語には、一も抽象観念を現わす言語が無かったという事実である。(
支那の言語が輸入されて、始めて「忠」や「孝」やが考えられた。)
こうした
抽象性のない国民が、一方に於
て直感的叡智に発達すべきは当然である。そしてこの方では、実に驚くべき世界的の文化を創造している。即ち
美術の如き観照本位の芸術が、今日世界的に優秀な
所以であるが、さらにその徹底したるものは、レアリズムの山頂を飛躍して、遂に
象徴主義にまで到達している。この「象徴」の何物たるかは後に述べるが、
世界に於て最も早く、かつ最も徹底的に象徴芸術を創造したものは、実に我が日本人あるのみだ。そしてこの
象徴主義に徹したことから、不思議にも日本人は、詩的精神の最も遠い北極のレアリズムから、逆に西洋詩の到達する南極に逼ってきた。
要するに日本人は、客観性の一方にのみ徹底して、主観性をほとんど欠いてるところの、世界に珍らしい国民である。日本人がいかに主観性を欠いているかは何よりもその言語が証明している。例えば我々の日常会話は、常に「賛成だ」とか「水が欲しい」とかいう。そして、「私」という主格が、いつも省略されているのである。故に日本に於て有り得る芸術は、いつも必らず
客観主義の芸術、即ち美術や、写実主義の文学や、レアリズムの文学やに限られる。主観主義の芸術は、抒情詩以外、一も日本に於て発育しない。明治以後もそうであり、始めて輸入された浪漫主義は、単に少年少女の幼稚な感傷文学として
弄ばれ、未だその真の根がつかない中に、早くも浮草のように枯れてしまった。そして
爾後今日に至るまで、実に長い間の文壇は、特殊の日本化した自然主義によって一貫し、深く地下に根を張ってる。この自然主義が伝来してから、今日に至るまでの長い歴史を、次に略説してみようと思う。
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