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十九世紀仏蘭西に起った自然主義が、およそどんな性質の文学であるかは、前の節に於て詳説した。一言にして云えば自然主義は、
啓蒙思潮の文学であり、逆説的な反語に充ちたところの、一のパラドキシカルな倫理主義の文学だった。しかしこの事は、必ずしも自然主義に限っていない。元来西洋人は、
極めて主観性の強い国民であり、日本人と正に
対蹠的な地位に立ってる。
故に西洋に於ける客観主義の文学は、
独り自然派に限らず、すべて主観への逆説であり、内に強烈な主張を持して、外に客観を説くところの、
内外矛盾したレアリズムで、言わば「主観を排斥する主観主義」「詩を内にもつ観照主義」の文学である。
これに反して日本人は、本来主観性のない国民、客観性にのみ発育した人種であるから、すべて西洋から移植された文芸思潮は、日本に来て特別のものに変ってしまう。
明治の浪漫派文学もそうであったが、――抽象観念のない日本人に、真の浪漫主義の理解される筈がない。――自然派文学に至ってはなお甚だしく、殆ど全く霊魂を抜き去ってしまったところの、一種奇怪なる特殊のものに変形した。但しその新しき輸入当初に於ては、さすが
尚西洋バタの
臭いが強く、原物そのままの直訳的のものであった
。即ち人の知る如く、初期に於ける我が国の自然主義は、独歩、二葉亭、藤村、啄木等によって代表され、詩的精神の極めて強調されたものであった。(田山花袋なども、初期の作品は極めて主観的で、詩的精神の強いものであった。)
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