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 行為の詩人と表現の詩人とが、実に此処ここから別れてくる。前者、即ち「詩を作らない詩人」たちは、純粋に主観的、感情的であるけれども、これを観照する客観性の智慧がない。故に彼等は、直ちにデオニソス的に爆発し、行動としての詩に走って行く。然るに芸術家の詩人にあっては、智慧がいつも背後におり、デリケートなるアポロ的静観者が見ている為、観念が行動の方に爆発しないで、表現の認識の方に移って行く。――人は無智であるほど勇敢であり、智慧があるほど臆病おくびょうである。――そしてこの分岐点から、実にドン・キホーテとハムレットが出来るのである。言うまでもなく芸術家は、すべてハムレットに属している。芸術家はだれでも、決してドン・キホーテたり得ない、運命の決定された素質を持っている。或は多少、それに近いものがあったにしても、所詮しょせんアポロ的デオニソスであり、ハムレット型ドン・キホーテたるにすぎない。即ち彼の大胆な行為の影で、智慧の臆病が眼をつぶっている。(セクスピア)
 故に真に「天分ある詩人」とは、この主観者と客観者、生活者と芸術家とが、一の人格に於て完全に結合され、10に対する10の比例で、平衡を得たものでなければならない。もし一方の者が他にまされば、彼は所謂「詩を作らない詩人」となり、もしくは逆に、芸術的才能のみあって詩的精神の欠乏している霊魂なき「詩を持たない詩人」になる。こうした不幸の例について、吾人は実に多くのものを見聞している。たとえば我が王朝の歌人在原業平ありわらのなりひらは、日本無比な情熱的な恋愛詩人で、かつ藤原氏の専横に鬱憤うっぷんしつつ、常に燃ゆる反感をいだいていた志士であり、あたかも独逸ドイツの詩人ハイネに比すべき人であったが、彼の和歌はそれ程でなく、人麿や西行に比し、二流であることを免かれない。即ち定評されている如く、こころあまって言葉足らずで、表現の才能が、主観の六分しか尽していないのである。さらに彼の兄行平ゆきひらに至っては、一層詩人的な情熱家であったにかかわらず、詩人としてはほとんど無能で、ようやく末流の才能しか持ってなかった。そして彼等の反対のもの、即ち表現の才能が有りあまって、しかも詩的霊魂の欠ける詩人は、引例のはんまでもなく、吾人の周囲到るところに発見できる。
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