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     第十二章 特殊なる日本の文学


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 前章に於て、吾人ごじんは芸術に於ける詩的精神の所在を概観した。そして文学の本質が、概して皆「詩的のもの」であることを認識した。けれどもその場合、吾人は特に「西洋の」と断っておいた。なぜなら日本の文学は特殊であり、性質が全く異っているからだ。日本に於ては、昔から現代に至るまで、欧洲に於けるような文学は、ほとんど全く発育してない。第一既に、文学の起原に於ける歴史からちがっているのだ。西洋の文学史は、前言う通り希臘ギリシャの叙事詩等から起原して来た。然るに日本に於ては、遠く古事記等にも見える如く、詩と散文とが入り混って、両方から同時に起って来たのだ。
 ゆえ西洋では、散文がすべて詩に精神し、詩的精神の母源の上に立っているのに、日本にはこの発育上の関係がなく、詩と散文とが別々に並行し、交互に没交渉で進んで来ている。故に近代の欧化した日本――果して真に欧化であるか?――に於ても、文壇の事情は同様であり、詩と散文とが風馬牛ふうばぎゅうで、互に何の交渉もなく、各自に別々な道を歩いている。おそらくこの二つの並行線は、永久にどこまで行っても並行線で、無限に切り合う機会がないかも知れない。なぜと言って今日でさえ、我々の詩人と小説家との間には、どうしても理解できない或るものがはさまっているから。
 日本の文学と西洋の文学とが、現代に於てさえ如何いかに特色を異にするかは、何よりも西洋の小説家と日本の小説家とを、人物的に印象することによってすぐ解る。西洋の文学者等は、ゾラでも、ツルゲネフでも、トルストイでも、ストリンドベルヒでも、小説家であるにかかわらず、人物的に「詩人」と言う感銘を強くあたえられる。然るに、日本の小説家には、そうした風貌ふうぼうを感じさせる作家が、殆どれにしかいないのである。日本のたいていの作家は、単に文士 Writer という雑駁ざっぱくな感銘をあたえるのみである。けだし日本は、三千年来世界と孤立した特殊国で、文物と国風の一切がちがっており、全くユニックに発育した国であるのに、最近外国からの文化が渡来した為、何もかも無茶苦茶の混線となってしまったのである。――雑駁のもの、あにただ今日の文士のみならんや。――以下日本の特殊文学を考えるため、ず我々の国民性から説いて行こう。
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