けれどもこの関係から、小説家が詩人に比して、より知的な人物である如く考える人があるならば、驚くべき笑止な
誤謬である。
智慧の優劣について言うならば、詩人はむしろ小説家に
秀れていても劣りはしない。なぜなら前に他の章(観照に於ける主観と客観)で述べたように、認識上に於ける主観と客観との相違は、智慧が感情に於て結合していると、感情から独立して有るとの相違にすぎず、その知性の働く実質には、なんの変りもないからである。ただ
様式上の相違のために、詩は感情によって歌い出され、小説は客観によって描出される。しかもこの
様式上の相違が、詩人と小説家とを区別するところの、根本の態度を決定する。
詩人は常に、世界を主観的に眺める為めに、認識が感情と結合しており、小説家の如くレアリスチックに、真の客観された存在を観照し得ない。反対に小説家は、何物に対しても客観的で、外部からの知的な観察を試みる。故にまた小説家は、詩人の住んでる「
心情としての意味の」世界に
這入り得ない。そこで結局、
詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れないということになる。小説家の作った詩――彼等はよく俳句や歌を作る――は、
概して観照に徹しており、修辞が凝り性に行き届いているにかかわらず、どこか或る根本のところで、詩の生命的要素を持たず、音の無い釣鐘という感がする。蓋し彼等は、詩を「
心情」で作らないで、知的な「
頭脳」で作るからだ。反対にまた
詩人の書いた小説は、観照が主観の靄でかすんでいるため、どこか感じが生ぬるく、真の小説的現実感に徹しない。
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