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 詩はこの点の態度に於て、小説と大いに違っている。詩人は「目的のための旅行家」であって、旅行することそれ自身、芸術することそれ自身の中に興味を持たない。彼等は常に主観を掲げて、エゴを「訴える」事のみを考えている。故に詩を作ることはいつも「祈祷きとう」であり「詠歎えいたん」である。詩人は小説家のように、人間生活の実情を観察したり、社会の風俗を研究したりしようとしない。即ち彼等は、真の芸術的勉強と仕事を持たない。芸術は詩人にとって「祈祷」である。そして何の「仕事」でもなく「勉強」でもない。詩人は文字通りの意味に於ける、真の「生活のための芸術家」である。これに対して小説家は、芸術を生涯の仕事と考えているところの、真の「芸術のための芸術家」である。
 かくの如く、詩の目的は「生活の欲情」を訴えるのであって、「生活の事実」を描写するのでないからして、詩には、所謂いわゆる「生活描写」というものが殆どない。詩の内容するものは、常に主観の呼びかける絶叫であり、祈祷であり、そして要するに純一の感情――気分、情調、パッショーンである。詩にあっては、どんな思想や観念やも、すべてこうした感情で表出される。そしてより純粋の詩ほど、より観念が気分や情調の中にけている。故に詩には、小説の描くような生活描写がなく、生活事実の報告がない。そこでもし、芸術上の「生活」という語を、「生活描写」の意味に使用し、そして「生活のための芸術」を「生活事実を描く芸術」と解するならば、詩にはその所謂「生活」がなく、反対に小説の方が「生活のための芸術」になってくる。だがこうした思想の馬鹿馬鹿しく、子供らしい非常識にすぎないことは前に述べた。詩は日本文壇の所謂「生活派の文学」には属しないのだ。(「生活のための芸術・芸術のための芸術」参照)

 此処ここでついでに言っとくが、この「生活のための芸術」を皮相に解して、日常生活の無意味な身辺記録などを書き、それで「生活がある」などと考える間は、いつまでたっても日本の文学は駄目であり、西洋のような真の自然主義や人生文学は生れて来ない。
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