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 故に詩と小説との比較に於て、小説を俗衆的であるという意味は、プラトンとソクラテスの比較に於て、後者の人物がよりざっくばらんで平民的に親しみやすかったという、表面上の気質や趣味性にのみ関すべきで、芸術としての本質上には別問題とすべきである。本質上から言うならば、小説もまた詩と同じく、超俗的の貴族性を持つものであり、またそうでなければならない。実に詩人と小説家との別れるところは、この点の高貴性に関係なく、単なる気風や趣味の上での、人物的な相違にあるのだ。即ち小説家は、概して趣味が世俗的で、気風が世間的にできている。故に彼等は、男女の情事にき耳を立て、市井しせいの雑聞を面白がり、社交や家庭にもぐり込んで、新聞記者的な観察をする。彼等の小説の題材は、すべて此処から出ているのである。
 これに反して詩人は、概してそうした世俗趣味を持たないため、小説を書こうとしても題材がなく、より超俗的な詩の方に這入ってしまう。故にこの限りに於て、小説はたしかに俗衆的であるけれども、芸術として本質上では、必ずしも俗衆主義のものではない。吾人はトルストイの小説が、ゲーテの詩よりも非貴族的であるとは考えられない。小説家であっても、またもちろん詩人であっても、芸術家は本質上に於て俗物であってはならない。そして此処に言う「**俗物」とは、価値意識の全般にかかるところの、広義のヒューマニチイ(人間良心)を持たない人物と言うことである。故に芭蕉ばしょうは言っている。「高く持して俗に帰す」と。けだし小説家の守るべき金言だろう。
 しかしながら詩は、他の別の意味に於て、やはり小説が持たないところの、特殊な芸術的超俗性を有している。したがって詩は、世間的には小説のように普遍されず、公衆としての広い読者を持ち得ない。この点で詩は、一般に言われる如く貴族的なものかも知れない。しかしながら詩の本質的精神は、不思議にも民衆と通ずるところの、全く同じ線上に立っているのだ。この「詩と民衆」との関係を次に述べよう。
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