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 かく詩には祈祷があって生活描写がなく、小説には生活描写があって祈祷がない。そこでこの関係から詩の世界は「観念界」「空想界」に属すとされ、小説の世界は「現象界」「経験界」に属すとされる。即ち前者はプラトンの世界であって、後者はアリストテレスの世界である。また前者の態度は哲学的で、後者の態度は科学的であるとも考えられる。故に小説の表現は、常に科学的・分析的で、部分についてのデテールを細かく描くのに、詩の表現は哲学的・綜合そうごう的で、全体についての意味を直感する。そしてこの特色から、詩の表現は必然にまた象徴に這入はいってくる。だがこの象徴の説明は後に譲ろう。
 最後に言うべきことは、詩が貴族的であり、小説が俗衆的であるという、一般の人々の通解である。この一般的の見解には、もちろん相当の真理がある。なぜなら詩は、小説のように多数の公衆的読者を持たないから、すくなくともこの意味で、詩は小説に比して高蹈的だ。けれども「貴族的」「俗衆的」という言語が、この場合に何を意味しているかを、吾人は常識学に於て知らねばならない。例をあげてみよう。ソクラテスとプラトンとの比較に於て、前者は平民的だと言われ、後者は貴族的だと言われる。なぜならソクラテスは、街路に立ってだれにでも話しかけ、少しも権式ぶらないざっくばらんの人物なのに、プラトンはアカデミイの学院に閉じこもって、典雅に身を持していた人物だから。
 そこでこの定評は当っているか、もし哲学者としての態度で言えば、ソクラテスは決して俗衆的でなく、むしろプラトン以上に貴族的だ。実にあの義人哲学者は、すべての俗衆的愚劣のもの、俗衆的先入見を憎悪ぞうおし、これによって獄に毒死されたのである。故にこの態度で言うならば、彼もまたプラトンと共に貴族的(超俗衆的)の人物である。そしてもしこの意味なら、此処に「貴族的」と言う言葉は、耶蘇ヤソにも、仏陀ぶつだにも、トルストイにも、一切の義人と生活者に共通し、その人格的本質の特色になるだろう。のみならず芸術そのものの目的が、本来また貴族的のものである。なぜなら芸術は、俗衆にびるためのものでなく、俗衆を啓蒙けいもうし、指導するためのものであるから。
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