忍者ブログ
したいほうだい    フログがただ静かに朔太郎を読むブログ                 
| Admin | Write | Comment |
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

     第十五章 詩と民衆


 詩という文学は、元来言って公衆的の文学でない。日本でも西洋でも、詩の読者は限定されており、小説のように多方面の読者をもっていない。この広く読まれるという点からすれば、詩は到底小説の比較でなく、民衆的の通俗性がないのである。けだし詩は文学の山頂に立つものであり、精神の最も辛辣しんらつに緊張した空気の中でのみ、心臓の呼吸をする芸術であるからだ。詩に於ては、すべて精神的にふやけたもの、だらだらしたものが擯斥ひんせきされる。ところが公衆の方では、またそれが無ければ解らないのだ。
 ゆえに公衆の眼から見ると、詩はいつも山頂に立ってる哲学者で、容易に親しみがなく辛烈のものに感じられる。しかしこのツァラトストラは、決して民衆から絶縁された存在でなく、実にはかえって、彼等と気質を同じくするところの、人種的同一類に属しているのだ。しかもこの大先生が、民衆を軽蔑けいべつすればするほど、いよいよ彼の偽らざる本性が、公衆の一味徒党であることが解ってくる。なぜならこの場合には、両方の反対衝突するものが、同じ一つの線の上で向合っているのだから。そしてこの両者の立脚している一つの線こそ、それ自ら詩的精神の本質に外ならない。
PR
この記事にコメントする
NAME:
TITLE:
MAIL:
URL:
COMMENT:
PASS: Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする
≪ Back  │HOME│  Next ≫

[87] [86] [85] [84] [83] [82] [81] [80] [79] [78] [77]

Copyright c 詩態放題 [管理フログ]。。All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog / Material By 深黒 / Template by カキゴオリ☆
忍者ブログ [PR]