第十五章 詩と民衆
詩という文学は、元来言って公衆的の文学でない。
日本でも西洋でも、詩の読者は限定されており、小説のように多方面の読者をもっていない。この広く読まれるという点からすれば、詩は到底小説の比較でなく、民衆的の通俗性がないのである。けだし
詩は文学の山頂に立つものであり、精神の最も辛辣に緊張した空気の中でのみ、心臓の呼吸をする芸術であるからだ。詩に於ては、すべて精神的に
ふやけたもの、
だらだらしたものが
擯斥される。ところが公衆の方では、またそれが無ければ解らないのだ。
故に公衆の眼から見ると、詩はいつも山頂に立ってる哲学者で、容易に親しみがなく辛烈のものに感じられる。しかしこのツァラトストラは、決して民衆から絶縁された存在でなく、実には
却って、彼等と気質を同じくするところの、人種的同一類に属しているのだ。しかもこの大先生が、民衆を
軽蔑すればするほど、いよいよ彼の偽らざる本性が、公衆の一味徒党であることが解ってくる。なぜならこの場合には、
両方の反対衝突するものが、同じ一つの線の上で向合っているのだから。そしてこの
両者の立脚している一つの線こそ、それ自ら詩的精神の本質に外ならない。
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