* 評論、随筆等のものは、文学中に於ての主観精神に属している。故に評論等の栄える時は、必然に詩(及び詩的精神)の栄える時である。然るに現時の我が文壇では、独り小説のみが繁栄して、他の文学が一向に興らない。否、我が国の文壇では、始めからこうした文学が「雑文」あつかいにされ、真の「創作」として見られないのである。詩的精神の呪われたること、日本現時の文壇の如きはない。
「詩人は哲学を持たねばならぬ。しかし詩に於ては隠すべきだ。」というゲーテの言葉は、これを転用して小説に言うことができる。「小説家は詩を持たねばならぬ。しかし小説に於ては隠すべきだ。」
** 「俗物」という観念は、世間的にしばしば趣味の低い人や、金銭の利殖に熱心な人を指している。だがこうした俗解は誤っている。なぜなら、世の中には、殆ど没趣味な人間でありながら、宗教や道徳の正義を感じているような義人があるから。また銭屋五兵衛や紀文の如く、生涯金銭の利殖を求めていて、しかも詩人的にロマンチックな人物もいる。仏蘭西啓蒙期の詩人ウォルテルの如きも、非常に実利的で利殖に抜け目のない人物でありながら、しかも当時一流の人間的情熱家だった。畢竟上述のような俗解は、風流人の対語として考えられている観念である。それは何の俗物でもなく、単に非風流人――風流を解せぬ人物――と言うにすぎない。
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